プレーンスケープ トーメント 非公式小説

催事場の講義

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 部屋に入ると同時に、講師がスピーチを始めた。

「ようこそ、シギル人よ! どうぞお座りください。そして私が話す“やみ”をお聴きください!」

やみだって?!」

 モーテが声を上げた。

「勘弁してくれ! こんな喋り屋の話をわけじゃないよな? さあ……頭蓋骨の唇の燃えるような情熱を味わう悦びの感覚を知らない、感覚者かんかくしゃの娘を探しにいこうぜ」

 彼は期待に目を揺らしている。私は無視して話を聴いた。

 講師は、死んだ者がどの存在の次元界にたどり着くことになるのかなど、死んだときに予期されることに関する理論を概説した。彼は、善良に生きた者が、あるいは少なくとも適切に生きた者が、死後に快適な次元界で新たな生を見つけると確信していた。

 彼は講演を終えて、こう言った。

「どこへ向かうとしても、これを知っておいてください。あなた方は新しい人生に乗り出すのです。新しい人生です、シギル人よ!」

 モーテがささやいた。

「それが励みになるのか? これを始めるのか? あーあ、もう一度浮遊する骸骨になるのが待ちきれないよ。ひゃっほー! あいつをぶっせ。なんてウスノロだ。死んだこともないような話しぶりだったじゃないか?」

 話者は続けた。

「あなた方はこの次元界の住民に、請願者せいがんしゃになるのです。あるいは理想的には、次元界を支える構成要素になるのです! それが全請願者せいがんしゃの目標です! この目標を達成するために、あなた方は……」彼は両手を叩いて強調した。「……自分の(パン!)理想を(パン!)持ち続けなければ(パン!)なりません!」

 モーテが再びささやいた。

「おお、こいつは湯気が出るほど酔っ払ってやがるぜ」

 話者は話を締めくくった。

「そしてそれが、“死”のあなた方を待ち受けるものなのです! 人生の生き方にお気をつけて。しかしこの生の後に待っているのは、忘却ことを知っておいてください!」

 モーテがついに大声を出した。

「マユツバだ!」

 話者は少し眉をひそめ、モーテのほうを向いた。そして誰が喋ったのか確認しようと身を乗り出した。

「質問でしょうか? 生きている方からの質問ですね?」

 モーテは講師の視界の下に引っこみ、私のほうを向いてささやいた。

「さあどうぞ、大将。あいつにやみを教えてやるんだ」

 この講演に不満を抱いたのは、モーテだけではなかった。私は講師を試すことにした。

「お前の話が真実であると証明してくれ」

「へ?」

 講師はあっけにとられたようだ。

「どうすれば証明できるのです?」

「今。ここで。死ねばいい」

 聴衆は静まり返った。プレッシャーを感じ、話者はわずかにつばを飲みこんだ。

「ええと、その……」

 彼は突然微笑んだ。

「あなたが最初に死ねば、私も死ぬことにしましょう」

 聴衆から笑い声が漏れる。

 私は、わずかな笑みを浮かべながら答えた。

「いいだろう」

 話者はしばらく顔をこわばらせ、そして輝かせた。

「ステージに上がってください、友よ!」

 彼は聴衆のほうを向き、微笑んだ。

「これは珍しいお楽しみですよ、シギル人! 今日は—今日だけは請願者せいがんしゃになる過程を、生でご覧いただけるのです」

 私は部屋の最前部に移動し、自殺し、そして起き上がった。

 話者は顔面蒼白になり、後ずさった。

神威かむいよ……!」

 私はただ微笑み、背を向け、部屋から歩いて出て行く。

 背後で彼が収拾をつけようとしているのが聞こえた。

「……それでは、この講義は終わりです……あー、私は会館のここで講義を続けますので、その……ええと……ご友人方にお伝えください」

 聴衆は確かに、この講義について友人たちに話すだろう。

 読めない日記に対する苛立ちを偽善的な講師にぶつけることで得られたのは、つかの間の満足感に過ぎなかった。もっと上手く気持ちを発散させる方法を見つけなければ。

 次の部屋では、別の講義が始まろうとしていた。細いが鋭い顔つきの、タトゥーに覆われた黄色い皮膚の講師が、冷たく黒い瞳で部屋の人々を見渡している。

「わしはギスゼライの学者、〈直列せし三次元界〉として識られておる。わしの講義のためにここにおるのであれば、間もなく始まるところだ」

 彼はとても低く重苦しい口調で話した。

「今日は属性と信念の力、そしてそれらがどのように次元界を形作るのかを話すことにする」

「まず始めに、属性の概念について話そう」

「属性は信念の記述語であり、信念に基づく人々の行動を示す。根本的に、すべての生物は心の中の善、悪、あるいは無関心—または中立—のいずれかを優先して振る舞う。そしてそれら核となる行動を、秩序、混沌、あるいは無関心、中立のいずれかの方法で表明する。そのため、各々には九つの核となる属性があり得るのだ。九つの属性、すなわち秩序にして善、中立にして善、そして混沌にして善……秩序にして中立、真なる中立、そして混沌にして中立……秩序にして悪、中立にして悪、そして混沌にして悪である」

 彼は続けて、属性とそこから生じる信念が周囲にどう影響するのか、そして神格が崇拝者の信仰からどのように力を得るのかを説明した。崇拝者のいない神格は死ぬ可能性があり、その死体はアストラル界に行き着くという。

 そして門扉街もんぴがいという例を挙げた。門扉街もんぴがいは中立のアウトランズに位置しているが、街のポータルが開かれた隣接する次元界と信念を共有している。そして彼は、門扉街もんぴがいの滑落について論じた。

「〈滑落〉は、とある信念の地域で異なる信念が集中することで発生する。これが起きると、地域自体が新たな信念に適合する次元界へと動く—あるいは滑る—のだ」

「現在、門扉街もんぴがいは通常、ポータルの先の外方次元界に適合する信念を有しておる。しかしその信念は、街がアウトランズから外方次元界へと滑るほど強くはない」

「例えばリブケイジの街は、秩序にして悪の次元界バートルへのポータルに隣接しておる。予期される通り、リブケイジの住人は大部分が秩序にして悪であり、しかし街全体の属性と信念は、リブケイジがバートルへと滑りこむほど強くはない」

「例えばリブケイジにて、ある日突然秩序にして悪の聖職者の教団が台頭し、闇の信念を押し広め、多くの住民に秩序にして悪の神を崇拝させたとする。そうなれば街が中立のアウトランズから滑り落ち、秩序にして悪の次元界バートルの一部となる可能性が十分にある」

「次元界の層全体が、かようにして動くかもしれぬ。そして多くの戦争は、必然的に信念と信仰の戦争である。領土を手に入れ、保持するための道具なのだ」

「これこそが、次元界を形作る属性と信念の力だ。これにて講義を終了する」

「信念がそなたたちの行動を導き、次元界がその意志に適わんことを。お達者で」

 講師は質疑を拒み、部屋を出た。

 部屋の外の廊下で、〈捻くれ者〉ギシスによる〈流血戦争〉に関する別の講義が始まるのが聞こえた。その争いに強く興味をひかれることから、何らかの関わりがあることは間違いない。講義が行われる部屋に急いだ。

 講義を行うのは、しゃがみ込んでいる猫背の老人だ。肩幅が広く傷痕があり、たこのある両手は労働者か戦士のものだろう。疲れ果てた絶望のオーラが漂っている。講義が始まった。

「よし! さあ聞け……こいつは〈戦争〉のセミナーだ。〈流血戦争〉のことを聞きに来たんなら、根を張れ。ちげえなら、柔らかくて健やかで愛しいシギル人のしなやかな幹があるべきは、ここじゃねえぜ」

 モーテがコメントした。

「〈流血戦争〉だって? ガヴァナーの法律朗読会より退屈だ。情熱を吹きこむべき若い感覚者かんかくしゃを探しにいこうぜ!」

 彼は期待に目を揺らしている。

 モーテに耳を傾けていて、講義を少し聞き漏らした。

「これはヒューマンの視点から見た〈流血戦争〉に過ぎねえ。どっちかを奨励するわけじゃねえ。別の悪臭を放ってやがるからな」

「そんで……残ったあんたらは、〈流血戦争〉の物語を聞きてえんだろ……〈戦争〉の話をな。そのを聞きに来たのは間違いねえな。ヒューマンの皮膚を織り合わせた浮遊要塞! 〈流血戦争〉が繰り広げられる、次元界規模の戦場!」

 彼は黄色い歯をむき出しにした。

「フィーンドに牙を食いこませるフィーンドの物語! グラァア! キシャァァァア!」

 うなり声はすぐに消え、彼はうんざりしているように見えた。

「まあ、あんたらの目ん玉ひんむいて、骨箱ほねばこかち割ってやる。あのクソの山に思い巡らせるなんざ、湯気が出るほど泡々あわあわなナンセンスの塊だ」

 彼は冷笑してつばを吐き、激しく目を回した。

「だがこいつを教えとこう。〈流血戦争〉のスケールを想像することなんてできねえんだ。あんたらが見たもの、聞いたこと、関わったこと比較になんねえ。時間、軍隊の数、膨大な流血……なんにも比較になんねえんだ、与太者よたもん。想像しようとするなんざ、忘れろ。おれのアドバイスか? 単純だ。あのでけえ血まみれの混乱には近づくな」

「フィーンドがフィーンドを殺してる。知るべきは、そんだけだ。バーテズゥがタナーリを虐殺してる。タナーリがバーテズゥを屠殺してる。今この時もな」

 彼は再びつばを吐いた。

「どっちも勝ってねえ。どっちかが勝てるなんて考えんな。永遠ってほどじゃねえが、膠着状態だ……神威かむいに感謝だな」

「これで終わりだ」

 彼は肩をすくめた。

「これで終わりだ。さあ、質問があんなら答えるぞ……」

 ようやく始まったところだというのに、明らかに彼はもう講義を終えようとしていた。部屋の者たちは何かを尋ねるつもりはなさそうだが、私には彼ら全員分の質問がある。

「それで、〈流血戦争〉の話はしてくれないのか?」

 私は尋ねた。

「わかった。ひとつ、やつらにとって“肉”が何を意味すんのか、例をあげるか。いやしい常命の衛兵を集めて、ほんの数百万人かそこらか、まったく理由なく殺し合わせんだ—どっかの神威かむいや見捨てられた土地をめぐる、意味のねえ争いだ。その魂はどこに行くと思う?」

 私はその質問に対して修辞的レトリカルな「どこに?」を返し、彼は続けた。

「自分たちが戦ってる悪の次元界に沈みこむのさ。そこで次元界のスープからはぎ取られて、レムレーとかマネスとか邪悪なぶっ鹿馬野郎かまやろうになって、また戦わされんだ。鹿馬かまみてえな請願者せいがんしゃが増えるほど、やつらの軍勢はでかくなる」

 私は〈流血戦争〉自体に関する情報を求め、彼はこう答えた。

「煎じ詰めるとすりゃあ、こうなる。〈流血戦争〉はクソみてえに長く続いてて、〈戦争〉自体が死者帳ししゃちょうに書かれるまで、クソみてえに長く続くだろう。と悪の闘士タナーリが、と悪の闘士バーテズゥの緑色のクソを踏み潰す。やつらはをめぐって互いをぶち殺してんだ。ハッ!」

 誰かが〈流血戦争〉を止めたら何が起きるのか尋ねると、彼はこう答えた。

「〈戦争〉には、どんなし違いだって起こせねえぞ! 鹿馬かまみてえにでかすぎんだ。あんたは石だ、海の中の石ころだ。そんでその海は別の海の中の石ころで、その海は別の海の中の石ころで、それが異臭ウシステンチ・カウが帰ってくるまで続くんだ。石ころとしてのあんたの目標は、気づかれずに他のクズと一緒にそこに沈んでることだな」

「違いを起こせるとしても—無理な話だがな—やるべきじゃねえ。次元界が崩壊しちまうからな」

 問うような私の視線に、彼は両手を柱のように上げた。

「〈流血戦争〉は、次元界を支える血まみれのでけえ支柱みてえなもんだ……蹴り倒せば、たくさんの次元界が一緒に崩壊しちまう。〈戦争〉の背中には、大量の荷物が載ってんだ」

 突然彼はロバのようにいななき、激しく笑った。

「次元界で最もでかくて汚らわしい駄獣だな……」

 彼はシニカルに笑った。

「それに一部のやつらが言うように、戦争ってのはビジネスだ」

 彼は虚ろに笑い、そして突然泣き出しそうに見えた。

「あぁ……気にすんな……他に質問は?」

 痛ましそうな彼に、大丈夫かと尋ねた。彼は悲しそうに微笑んだ。

「あぁ、ああ……聞け、切者せっしゃ。おれは聖職者じゃねえし、聖職者になんざなりたくもねえが、これだけは聞いとけ。心に悪を寄せつけんな。心に悪を持ったまま死ねば、魂は下方次元界に堕ちて、そこで請願者せいがんしゃになることになる……」

「どうなるかわかるか? アビスとバートルの請願者せいがんしゃは、歪められて歩兵になる……そんで〈流血戦争〉で永遠に戦うことになるんだ」

 彼はクスクス笑い、頭を振った。

「それが、バーテズゥとタナーリが関わったやつらを退廃させようとするやみだ。やつらが軍隊を必要としてるからだ。だから心に闇を寄せつけねえ必要があるんだ、与太者よたもん

 〈流血戦争〉の始まりは何だったのか質問した。彼はこう答えた。

「そもそもなんでこんなでけえ古い鹿馬かまみてえなどろどろした混乱が始まったのか、興味があんのか。そもそもなんでフィーンドどもが、それが生きる唯一の理由になるまでぶつかり合ってんのか、互いに引き裂き噛みつき合ってんのか……」

「単純だ。やつらが出会ったからだ」

 彼はため息をついた。

「ある日タナーリとバーテズゥがすれ違って、二人の酔っぱらいの偏屈者みてえに戦いはじめた。単純な話だ」

 彼は眉をひそめた。

「まあ……」

「いや、っ引け。互いが唯一生きる道を知ってると信じてる、二人の酔っぱらいのを想像しろ。その聖職者に鱗と牙と角と7リーグほどの残忍さを取りつけて、ちいせえ鹿馬かまみてえな独房に突っこむ……そうすりゃ、あふれ出る愛が思い浮かぶだろ。それだ! そいつが〈流血戦争〉の起源なのさ」

 なぜ二つの悪の種族が戦っているのか尋ねた。

「一方は、悪は高尚で秩序だったもんであるべきだと信じてる。一方は、悪は混沌であるべきで、次元界じゅうにはびこるべきだと信じてる。両方とも悪だが、何か同意できるもんがあるってわけじゃねえ。恨み、辛み……互いが相手を皆殺しにしようとしてる。自分の悪の“ブランド”が残るようにな。やつらは互いを憎んでる。まるで……まるで……」

 彼は正しい言葉を見つけようとして、両手をもみ合わせた。

「つまりだ、やつらの憎しみはおれたちのとは違う。おれたちは憎しみってのが何なのかさえわかってねえ。おれたちの言葉には、『憎しみ』だけだ。やつらには……」

 彼は声を落とした。

「……数千ある。数千あって、意味合いがねじれて積み上がってんだ……死体みてえにな。やつらは争うんだ」

 〈流血戦争〉はどこで行われているのかという私の質問に、彼はこう答えた。

「山ほどの場所でだ……下方次元界だ。ステュクス河沿いのどこか、バートルの九層、ゲヘナの四つの灼熱地獄、〈灰色の荒野〉、寒く赤いカルケリ—牢獄次元界—そして、ぶっし無限の悪の泉アビス」

 どういうわけか、〈灰色の荒野〉にはなじみがあった……

 私の頼みで、彼は〈灰色の荒野〉について詳しく話してくれた。

「〈憂鬱〉とも言われてる」

 彼は肩をすくめ、そして反射的に身震いした。

「あらゆる意味で灰色だ。そこでは色が目を燃やし、恐ろしい叫び声を上げんだ。夢は地表に引き寄せられて、地面にこぼれて永遠に失われる。そこを支配してんのは夜の妖婆ナイト・ハグだけだ……〈荒野の灰色の貴婦人〉さ」

 次にタナーリについて訊くと、彼はうなずいた。

「タナーリはバーテズゥよりは羽振りがいいが、顔が2、3個必要で、体中に目をまき散らさなきゃならねえぜ。やつらに背中を見せることはできねえからな。混沌で気まぐれで移り気の存在だ。信じること、言葉を守ることは、やつらの優先順位の上にはねえ……」

 彼は鼻を鳴らし、肩をすくめた。

「やつらは気にしねえ。それが悪である限りな。やつらがバーテズゥを襲うのは、だいたいが同族殺しを控えるためだ」

 そして彼は、タナーリの敵であるバーテズゥについて説明した。

「やつらはたいていタナーリほど羽振りはよくねえが、文字にした言葉は破らねえ。やつらは頭がいい—100倍の100倍の100倍は頭がいい。時が始まった時から契約をやってる。言葉で皮をはぐ方法を知ってんだ。契約しちまえば、十中八九やつらの軍で皮をはがれて吊される」

「ろくでもねえ計画を立てやがる。たった一度の戦略的な小競り合いに、大半のヒューマン軍が遠征全体に注ぎこむよりも多くの思考と準備をしやがんだ」

 彼は鼻を鳴らし、あごをかいた。

「たいていはアヴェルヌスで軍を招集する。バートルの第一層でな」

 彼は私の質問に答えてアヴェルヌスの説明をした。

「アヴェルヌスか? ふん……」

 彼はその場所を思い出すだけで物理的な苦悶が生じるかのように、顔をしかめた。

「クソ野郎どもと、クソ野郎を食い物にするやつらの住み処だ。有毒の砂と焼けつく炎がそこらじゅうで吹きすさぶ、赤いまだらの大地。それがバートルのアヴェルヌス層の印象だ。ひでえ場所だぜ」

 仲間のこともあり、フィーンドの一種であるサキュバスに特に興味があった。彼はサキュバスについて説明してくれた。

「タナーリだ—美しいが、まったくの悪だぜ。やつらは定命者を誘惑して、アビスに引きずりこもうとしやがる」

 彼はフォール゠フロム゠グレイスにうなずいた。

「気を悪くするなよ、嬢ちゃん」

 彼女は答えた。

「気にしていません。完全に正しい説明でしょう」

 〈流血戦争〉を生き残る方法を訊いてみた。

「〈流血戦争〉の生き残り方を知りてえのか? みっつあるぜ、切者せっしゃ

 彼は欠けた手の指を二本だけ上げた。

「第一に、して関わんな。第二に、本気でしても関わんな。最後に……ぜってえしても鹿馬かまみてえに関わんじゃねえ」

「〈戦争〉の一部にでも巻きこまれたら、ぐうたらなケツを想像力で蹴っ飛ばして、力の限り逃げるこった。逃げれねえなら、微動だにせず過ぎ去るのを祈ってろ」

 彼は少し間を置いた。

「影響がねえ場所なんてねえし、逃げる場所もねえけどな」

 なぜ〈戦争〉がシギルで行われないのか尋ねると、彼はこう言った。

「おいおい、切者せっしゃ、見ろよ。ここでも争いはあるぜ……たまにな。〈流血戦争〉がちょびっとあふれ出ることがある。われらが〈苦痛の貴婦人レディ・オヴ・ペイン〉が—彼女の鋼に満ちた心に祝福を—火を消してんだ……」

「……な」

 彼は冷笑した。

「たまに、おっかなくやべえ鹿馬かまみてえに恐ろしいときには、彼女が家を掃除しようと決める前に、やつらがシギルの鹿馬かまみてえな街全体を壊して燃やしてかぎ爪で押しのけやがる」

 彼は舌を鳴らし、冷笑的にウィンクした。

「だから彼女も見た目ほど、いつも〈流血戦争〉を止めるのに熱心ってわけじゃねえんだ」

「なぜフィーンドたちはシギルを占領してしまわないんだ?」私はそう訊いた。

 彼は笑ったが、その後つばを飛ばしながら咳きこんだ。

「誤解すんな。タナーリもバーテズゥも獰猛にシギルを狙ってる。このぶっし多元宇宙で一番貴重な足場だからな—この鳥籠とりかごは〈扉の都〉で、つながってる。無視はできねえ。そんで〈流血戦争〉に貢献して勝ちてえんなら、手に入れなきゃならねえ」

 彼は再び咳きこんだ。

「〈貴婦人レディ〉が仕切ってるうちは、フィーンドどもの手には入らねえってだけだ。くぎみてえにタフで、その刃はどんなフィーンドの牙よりも深く切り裂く。そんで信じられねえほどにフィーンドどもを縛り上げる。無口な〈貴婦人レディ〉が両手を袖に入れたまま、独りで〈流血戦争〉を押しとどめてんだ」

 フォール゠フロム゠グレイスが小さな声で批評した。

「一人の女性が〈流血戦争〉を止めることができるとは、どうにも信じがたいですね」

 しかしフィーンドたちはシギルへの立ち入りを許されていると言うと、ギシスはこう答えた。

「おお、まったくその通りだ。やつらは道端で乱闘なんてできねえ……必要以上にはな。シギルは中立の地だから、やつらは互いを殺そうとすることなく骨箱ほねばこを鳴らせてる。ときには長話することもあんだろう。だが、平和はそんなに続かねえ……」

「それに道端で殴り合えねえからって、スパイや徴兵や奇襲ができねえってわけじゃねえ。やつらは虚言妄言で戦ってんだぜ、与太者よたもん。ときには怒鳴り声、わめき声にもなる。それに安全な住み処があるんだ。やつらが次の小競り合いの前に、かぎ爪を冷やせる場所がな……」

「それと、やつらはここで兵を集めたがってる。栄誉ある軍隊の一部になりてえってちょっとした欲を持つ、次元界に来たばかりのガキどもをな」

 彼は喋るのをやめ、私をまじまじと見た。

「あんたも雇われたことがあんじゃねえか、切者せっしゃ? 〈戦争〉を味わったことがあるように見えるぜ」

「そうかもな」

 私はあいまいに答えた。

「〈戦争〉は傷痕を残すんだ、切者せっしゃ。わかんだろ。そんで戻りたくねえって思ってんだろ」

 彼の言葉を考えていると、こめかみがずきずきと痛みはじめた……記憶が浮上しはじめる……

 講義室が視界から消え、恐ろしい光景が心の底からしみ出てきた……感じたことも聞いたことも、見ないようにしようとしたことすらないような光景だ。祈りが耳に入ることなく、石のように地面に落ちる場所……かつては空だったもののが足元で沸騰し、とどろき、至る所で血管のような稲妻が走る……

 私は自分の血だけを身につけ、壁がじっとりと震え心臓のように脈打つ暗い峡谷を抜け、男たちの大きな一団の先頭を走っていた。ついに私は、灰のような灰色の大地が巨大な蛇のように滑り、足首に巻きついて私の悪事を地面にささやく場所に降り立った。私はこの色のない大地を、黙々と果てなく進んできた。疲労が生きているかのように、荒野に投げかけられる影のように私を追いつめ、絶望を鞭打つ……

 やがて、私と私に続くぼろぼろの男たちは、巨大なのたうつ幼虫の山の上に座り、粘液に覆われたものを割れた爪でつついている妖婆ハグのところにたどり着いた。私は男の一人に指示し、彼女に駆け寄って話しかけさせた。妖婆ハグのきしる声が聞こえてきた……

「彼と話したいねえ」

 彼女はそう言ってヒヒヒヒと笑った。私を指さす彼女の瞳が光る。

「ぼろぼろの隊列を率いてる、そのハンサムなおとこだよ。彼と話したいねえ」

 ……そして思い出せたのは、それだけだった。

 ぼんやりしていた私に気づいたギシスが訊いた。

切者せっしゃ? 具合は大丈夫か?」

 問題ないと保証し、フィーンドたちは頻繁に徴兵するのか尋ねることで、彼の心配をそらした。彼は険しい顔でうなずいた。

「それは確かだぜ。シギルは次元界で一番の飼料の源だ。主者しゅしゃの惑星から住人を根こそぎ搾り取っちまいそうだ……仕事のしすぎだぜ」

 〈戦争〉を生き残るアドバイスは他にないか尋ねた。

「あるぜ。なにがあっても、どんなフィーンドとも〈流血戦争〉について話すな……どんなデーヴァやアルコンともな。ただ話すな、以上だ。喋ってる相手が、本当は一体誰なのかわからねえからだ。そんで〈戦争〉を持ち出せば、やつらはとんでもなく短気になりやがる。それが生きる理由だからな」

「どこにつながってんのかぶっし確かじゃねえ限り、どんなポータルも通んな。ポータルを通り抜けて〈流血戦争〉の争いのまさにど真ん中に入りこんじまった脳無のうなしの次元渡りの物語は、まあ聞いたことがねえだろう。なぜだかわかるか? そんな鹿馬かまどもは死んで、死んで、死んだからだ」

「それになにがあっても、どんだけ大量のジャラを見せられても、兵役の契約はすんじゃねえ。〈流血戦争〉の兵役の契約は、確実な死と同義だからな、切者せっしゃ

「契約しちまえば、時自体が止まるまで兵役が続くように皮をはがれちまう。死さえも解放じゃねえ。下方次元界に沈みこんですくい上げられて、前よりひでえもんに変わっちまうからな。そうしてやつらは、永遠にかぎ爪を埋めこむわけだ」

 どうすれば契約から抜けることができるのか尋ねた。

「やつらに望まれねえ限り、チャンスはねえ。けち臭せえ新兵どもや、やつらがかぎ爪を離したくねえ相手に対して、そんなことがあったなんて聞いたことがねえがな。タナーリを出し抜くのは、危険だが不可能じゃねえな……バーテズゥとの契約は、もっとずっと危険だぜ。やつらと契約すりゃあ、人生は終わりだ……」

「ちょっとばかしのを送って、やつらを汚そうとすりゃあ、逃げられるかもしれねえな……だがどこに行くんだ? 地獄は山ほどあるぜ……」

 〈流血戦争〉にはどうやって雇われるのかを質問した。彼はこう答えた。

「知っての通り、ときたま革頭かわあたま与太者よたもんがやってきて、〈流血戦争〉の仕事について聞き回ることがある。ジャラを求めて、兵役を求めて、命を抱えて去ってくんだ。おれもそんな革頭かわあたまの一人だったんだろうな。おれは傭兵ようへいで、〈戦争〉でいくらかジャラが手に入るって聞いたんだろう。そんで興味を持った……」

「教訓を学んだぜ。おれたちは、踊る鹿馬かましの神々のかかと近くを走り回る、蟻みてえなもんだ。でけえ兵士になるって言ってた、でけえ男たちを見たことがあるぜ……」

 彼は頭を振った。

兵士だ。あいつらにとって、〈戦争〉はだ。目を覚まさせたり、するもんだ」

 その後私は、彼が戦争を生き残った方法を訊いた。彼の顔がかげった。

「おれは……いや、そいつは喋りたくねえことの一つだ、切者せっしゃ。戦争から逃げるためにしなきゃならねえことをした、と言うだけで十分だろ」

 彼の生存に関する冷酷な話は聞いていた。

「ヴリスチカという女性から、お前が戦争から逃げるために部下たちを殺さなければならなかったと聞いたぞ」

 男の顔が怒りで赤らんだ。

「口に気をつけろ、切者せっしゃ! そいつは嘘だ! 馬鹿げた、馬鹿げた嘘だ! フィーンドと〈戦争〉について話して、その一言一句を信じるなんて、てめえ泡々あわあわなのか?!」

 私はシンプルに答えた。

「なら、何が起きたんだ?」

「何が起きたか教えてやるよ、与太者よたもん!」

 彼はため息をついて、わずかに落ち着きを取り戻した。

「おれは〈灼熱の像〉の一団だった……もとは定命の傭兵ようへいが53人いたんだが、残ったのはおれたち9人だけだった。アヴェルヌスのどこかで野営して、次の戦いのための増援を待ってた……」

「まあ、おれたちの兵役は終わりかけてたんだ……実際、おれはその戦いの後に抜けるはずだった。問題は、もしそこで死んだら、おれは永遠にやつらのものになるってことだ—おれの心は暗闇に、不吉な考えに満たされてた。バートルの請願者せいがんしゃに、〈戦争〉の永遠の兵士になっちまうかもしれなかったんだ」

 彼はその考えに震えた。

「おれと2人の若者が、犬みてえに逃げ出した、それが、起きたことだ。おれたちは何日か次元界じゅうを駆けずり回って、あの生きてる頭のでけえ柱にたどり着いた……ひでえ光景だったぜ……やつらはしゅうしゅうぺちゃくちゃわめいて、近づくよう言ってきた。その夜におれは、密かに独りで柱と話しにいった」

 ギシスは目を閉じ、こめかみをさすった。

「おれは……おれは柱に、どうやったら自由になれるか、どうやったらバートルを離れられるか訊いたんだ……そしてあれは、おれの兄弟2人と引き換えだと言ったんだ」

 彼はしばらく黙りこみ、涙をこらえるかのように拳を噛んでいた。

「あの時……おれにとっちゃ……当然の計算だった」

 目の前で苦しむ魂に同情を感じた私は、優しく言った。

「恐ろしい選択をしなければならなかったんだな」

 彼はうなずいた。

「自分を赦せるようになるかもわからねえ。今のおれは、ただ死に場所を探すだけの兵士だ。死んで〈流血戦争〉に戻る前に、悪の染みを消そうと、内なるギシスを浄化しようとしてる。ここで講義してんのは、人々を〈流血戦争〉に近づけさせねえため、あんな選択をさせねえためだ」

 彼の話はヴリスチカが語ったものとそう遠くないと、気づかずにはいられなかった。

「そうだ……これでしまいだ。感覚者かんかくしゃもいるだろうから、一つ言っとくことがある。ぶっし〈流血戦争〉が何なのか見るために、契約すんじゃねえぞ。泡々あわあわなマヌケにはなるな。知りてえんなら感覚石を使え。〈流血戦争〉に関わることには、本気でぜってえ近づくな」

「ただ、そんだけの価値はねえんだ。ただ……」

 しばらくのあいだ、彼の顔に強い痛みが横切っていたように見えた。泣き出しそうなほどに。

「……価値はねえんだ、まったくな。これで講義は終わりだ、じゃあな」

 もう遅い時間だったため、休むために〈催事場〉の部屋に戻った。その途中でアンナが、今まで無視していたフォール゠フロム゠グレイスのほうを向いた。

「それで、どれだけ一緒に旅するつもりなわけ、サキュバス?」

「許されている限り、だと思います」

 レディ・グレイスの落ち着いた声が答えた。

「じゃあ、あんたは許されてないわ。私は信用してないもの」

 アンナの声には、このささいな勝利の優越感があった。


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