プレーンスケープ トーメント 非公式小説

フォール゠フロム゠グレイス、PART 1

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 次の日、書き物屋区に戻った。私の足は円形の巨大な建物に向かった。何の施設かは分からないが、中に入ってみた。外側の扉のすぐ先は小さな部屋だった。内部の扉を押し広げ、ロビーに進んだ。

 目の前に美しい金髪の女性がいた。空色とスミレ色のドレスをまとい、一対の優雅な長い翼を肩に羽織っている。彼女はわずかな笑みを浮かべ、部屋を見渡していた……確実に、これまで見た中で最も美しい女性だろう。

 彼女にあいさつした。私の声を受けて、彼女が振り向いた。そして私を見定め、わずかにうなずいた……その瞳は、ドレスとまったく同じスミレ色だった。

「ようこそ、旅人さま」

 彼女は金色の後れ毛を払った。

「どういったご用件でしょうか?」

「お前は?」

「フォール゠フロム゠グレイスと呼ばれています」

 彼女はしばらく私を見つめた。

「シギルは初めてでいらっしゃいますね?」

 私には二通りの答えがあった。どちらも真実だ。私は文字通りの真実を選んだ。

「いや、実際はかなり長くここにいるようだ」

 フォール゠フロム゠グレイスは片眉を上げた。

「本当でしょうか?」

「ああ……だが長い話だ。私が知っているよりも長いかもしれない。それよりも、この場所に興味があるんだが」

「ここは〈知的な欲望を満たすための売春宿〉です」

 彼女はしばらく私を見つめた。

「そのような質問をなされたのですから、ここで時を過ごすおつもりではないのですね?」

「〈知的な欲望を満たすための売春宿〉? どんな売春宿なんだ?」

「わたくしがこの売春宿を設立したのは、単なる情欲ではなく表現の手段を心にもたらすような、貪欲な興奮を与えるためです。他者との会話や言語の技にたずさわることで、大きな喜びが得られるのです」

 モーテが批評した。

「退屈そうだ」

 彼女は答えた。

「そんなことはないと保証いたしましょう。見てまわって、ご自身の目で確かめてみてください」

 私の好奇心はいつも簡単に刺激され、私をせっつく。

「教えてくれ。なぜそんな場所を設立したんだ?」

 フォール゠フロム゠グレイスは片眉を上げた。

「それは風変わりな質問ですね」

 そして眉をひそめた。

「これまでそのようなことをお尋ねになった方は、いらっしゃらなかったと思います。少なくとも、直接的には」

 彼女の口調に合わせて、形式張って答えた。

「失礼した、レディ・グレイス。これほど直接的に訊くつもりはなかった。ただ興味があっただけなんだ」

「あら、謝罪は必要ありません。設立理由についてあなたと話し合うことは、むしろ喜びです」

「なら、聞かせてもらいたい」

「質問にお答えする一環として、わたくしが全感覚協会の一員であることを知っていただく必要があります。わたくしどもの党閥とうばつは、人はできる限りこの多元宇宙を経験すべきだと信じているのです」

「それがここを設立した理由か?」

「この売春宿は、鍛え抜かれた知識人の欲望さえも満足させるための場所です。心を刺激し、自らと他者への意識を高め、他者を経験する新しい方法を作り出すよう設計されています。〈蟲蔵むしぐら〉と下層区を満たす浅い物理的な悦び以上のものを求める方々のための場所なのです」

「なるほど。つまりこの建物は、知的なやり取りを促進するためのものなんだな。あ~、その、他の種類のやり取りではなく。ここにいる女性たちは、特別に違いない」

 客たちが他の場所で、浅い物理的な悦びを我慢できるかは疑問だが。

「ここの女性たちは、熱心に感覚者かんかくしゃに志願している者たちです。教えを求めて私のところにやって来て、党閥とうばつに入る準備をしているのです。また、彼らの多くは言語に対する天性の理解力を持っていますから、どんな無感覚なお方の殻であれ、砕くことができるでしょう」

「そうか。ここの女性たちは、いわば修行中なんだな?」

「ええ。生徒たちには、言語の技とその機微について学ぶことで、自らについてより学んで欲しいと願っています。人の限界は、言語を操る力によって規定されます。言語を用いて他者の感情を呼び起こすことができるのは、途方もない技術なのです」

 私は、対面している相手がどのような存在なのかも知りたくなった。

「差しつかえなければ、レディ・グレイス、その背中の翼は……お前はヒューマンではないようだが?」

 アンナが口をはさんだ。

「こいつはフィーンドよ、サキュバスなのよ、ほんと。あんたを見定めて、魂を下方次元界に持ってくつもりだわ、きっとそうよ」

 フォール゠フロム゠グレイスが答えた。

「お連れの方のおっしゃる通りです。わたくしは下級のタナーリ、具体的に言えばサキュバスなのです」

 彼女は柔らかなため息をついた。

「残念ながら、わたくしたちは下方次元界やその他の場所でも、あまりに品がありません。わたくしの種族の大半は、様々な肉体の悦びによって、定命の人をかどわかすことに時間を使っています」

「……お前は?」

「そのようなことからは距離を置くことができたと、信じたいですね……この多元宇宙で時を過ごすには、究極的に矮小で非生産的な方法ですから。生にはもっと多くのことがあるのです。同意していただけますか?」

 コメントはせずに、彼女が助けになるかもしれない別の話題を切り出した。

「お前は私の助けになるかもしれない。記憶を失ったようなんだ……それで、私は自分を失ってしまった」

「記憶喪失を患っていらっしゃるのですね?」

 フォール゠フロム゠グレイスは痛ましそうだ。

「なんと酷いのでしょう! 原因に何か心当たりはおありですか?」

「分からない……少なくとも、覚えてはいない。〈葬儀場〉の死体置台スラブで目覚めて、それ以前は真っ黒だ」

「〈葬儀場〉で目覚めたのですか?」

「死んでいると塵人ちりびとが誤解したのか……それとも死んだのか、あるいは……私が知っているのは、傷がすぐに再生するということだけだ。不死なのかもしれないが、それすら定かではない」

 フォール゠フロム゠グレイスは新たな興味を抱いて、私を見定めはじめたようだ。

「あなたの体のその傷」

 彼女は触ろうとするかのように手を伸ばした。

「構いませんか?」

「ああ」

 フォール゠フロム゠グレイスが私の胸に軽く指を沿わせ、傷の曲線をタトゥーに混ざり合うところまでなぞった。彼女は魅了されているようだ。

「幾たびもの生涯をかけて、蓄積されたかのように見えます」

「まさにそうなのだろう……いくつかは、最近のものだが」

 フォール゠フロム゠グレイスが離れた。

「いくつかの傷は、致命傷だったことでしょう。常命の人にとっては」

 彼女はあごを軽く叩きながら考えた。

「今は、何をするおつもりですか?」

「私の記憶と、人生を取り戻す必要がある。次元界を探し回って、自分の内を探求して、自分が何者でどうしてこうなったのかを紡ぎ合わせるつもりだ」

 フォール゠フロム゠グレイスはまだ考え続けていた。指があごを叩いている。

「文字通りの意味で、自らを失った人に会ったことなどありません」

 彼女は片眉を上げた。

「お許しいただきたいのですが、あなたの状態は、興味をひかれるものです」

「『興味をひかれる』? 恐ろしいのほうが近いだろう。自分が誰なのか、何をしたのか、敵は誰か、味方は誰か知らない状態は、好ましくはない」

「気を悪くさせてしまいましたね」

 フォール゠フロム゠グレイスは頭を下げた。

「受け入れてくださるなら、謝罪させてください」

「構わない」

 フォール゠フロム゠グレイスはうなずいた。

「助けになるのであれば、この〈売春宿〉をご見学なさってください。生徒の何人かは、言葉の技に精通しています。あなたの記憶を、再び輝かせることができるかもしれません」

 喋る彼女につられて、別の質問を口走ってしまった。

「私の旅に加わらないか?」

 こんな風に心の中身をこぼすことは、もうないと思っていたのだが。

 アンナが体をこわばらせ、ぶつぶつと独り言をつぶやきはじめた。

「こいつが一緒に来るなんて、ありえないわ。こいつみたいなのなんて、私たちには必要ないわよ、ほんと」

ふさげよ、このフィーンド族!」

 モーテが歯をかたかたと鳴らした。

「オレはサキュバスが一緒に来るのはだ……神威かむいに誓って、アンタが腸にマキビシ通すくらい楽しくなるのは明らかだからね」

 アンナは案の定、えさに食いついた。

骨箱ほねばこを閉じとくべきよ、頭蓋骨。さもないと私が思いっきり鳴らして、その歯を巨塔まで飛ばしてやるわ—!」

「あなたと旅を?」

 フォール゠フロム゠グレイスはわずかに微笑んだ。私の仲間のことは、無視することにしたようだ。

「臆面もないのですね」

 私は彼女が同行する理由を急いで考えた。

「自分の気持ちには正直でいたい。お前はとても感じがよく、次元界のしきたりにも精通している。そのような知識を持つ仲間は歓迎だ」

 今度は私がモーテを怒らせてしまった。

「おい、ちょっとまて! 次元界に精通してるのはオレだろ! そいつはオレの仕事だぜ、大将!」

「次元界についてよく知ってる者が二人もいれば、とてもスマートだ。それに私は『感じがいい』とも言ったんだ、モーテ」

「見た目はな! 、どんな娘でもちょいと肌を見せられれば、すぐに受け入れちまうようにしか見えないぜ!」

 モーテはすぐに落ち着いた。

「本当に気にしてるわけじゃないよ。言いたくなっただけさ」

「注意しておくよ、モーテ。さあ……レディ・グレイス、出過ぎたことであれば申し訳ないが、私たちと共に旅するつもりはないか?」

「あなたの誠意には感謝いたします。では、質問で反論いたしましょう。なぜあなたと旅するべきなのでしょうか?」

「自分のために次元界を探索する不死の記憶喪失者と共に旅することに、興味がないということか?」

「あら、興味は非常にあります」

 彼女はわずかに微笑んだ。

「そのような提案は好奇心をそそられるものです、それは間違いありません」

「なら、私と旅をしたいのか?」

「わたくしをお望みでしたら、していただくことがあります。この施設には10名の生徒がおります。彼ら全員と話し、その後わたくしのところにお戻りください。そこで、共に旅をするか否か、決めることにいたしましょう」


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