プレーンスケープ トーメント 非公式小説

下層区

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 翌朝、下層区をさまよっていると、棺職人の店を見かけた(店自体が棺の形だったので分かりやすかった)。扉の上に『久遠が為に設計せり』という標語が書かれている。その標語に何らかの親しみを感じた私は、中に入った。

 いかつい見た目の、あごが四角い男がいた。彼は満面の笑みで私のほうを向いた。

「ごきげんいかがかな、切者せっしゃ、いい日ですなあ、実にいい日だ」

 彼は私に一瞬だけ目を細め、そして握手の手を突き出した。そこには客だと思われる別の男も立っていたが、何も言わずに私を見ただけだった。握手をすると、彼は話を続けた。

「ハムリスです、どうぞ何なりと。ハーモニウムのメンバーで、最近旅立った方々のために、いい棺桶を仕立てております。あなたは、お会いしたことが……? ちょっと思い出させてください……」

 彼は間を置き、考えた。

「一つ言わせていただければ、ハーモニウムである私は、名前に対して厳格なのですよ。この区画の誰も彼も知っていまして……」

 私の万能の嘘が、意識せずに口から滑り出た。

「アザーンだ」

 彼は指を鳴らした。

「そうですそうです! アザーンさん! 存じてましたとも。まあとにかく、私の仕事がご入用なのでしょうか?」

 彼は私を眺め、そして私をダシにする冗談を言う機会を見つけて微笑んだ。

「私が思うに、あなたは棺桶や何やを心底必要とされているようだ」

 彼は自分の気転に満足げだ。

 ハムリスに話を聞かせるのは骨が折れた。彼は自分の声を聞くのが楽しいようで、私は結局、彼に喋らせて黙って立っていることになるのだ—この新しい感情、“退屈”を感じながら。いくつかの話題を耐えがたい詳しさで網羅した後、彼は日記についての話を始めた。

「私はメモを取っていまして、その記録を読み直すのが好きなんですよ、自分の思考を半月から一月後に振り返るのは、とてもすばらしい読書体験ですからね」

 まるで私が彼の話を完全に理解したとでも言うかのように、彼は私にうなずきかけた。そして単調な話を続ける。

「書き物屋区の活版職人たちと、その記録を印刷する可能性を話したことがあります。私がハーモニウムの出兵で観察した都市生活の様々な側面に対して、彼らは極めて深い洞察力をお持ちだとお伝えたのです。正式な訓練を受けていなくても、多くの方々が私の文調は非常に印象的だと同意してくれました……まあ、それはそれとして。あなたに直接お聞かせするほうが、はるかに簡単でしょうな。私の洞察に満ちた一節をいくつか、読んで差し上げましょう……」

 ハムリスは単調な日記からいくつか読んでくれた。そのどれもが、それなりに退屈だった。ついに私は逃げ出す方法を模索しはじめ、彼が父親の失踪について何か言った時、ほとんど聞き逃すところだった。なぜかその話題が、私を強く引き止めた。私は彼を止めようとした。

「待て、父親が失踪したと言ったか?」

 ハムリスは手を上げて私の妨害を止め、退屈な日記を次の段落まで読み終えた。

「さて、ここまでをどうお思いでしょうか? ハーモニウムの平凡なメンバーに期待される水準を超えた、驚くべき洞察力なのでは?」

 彼は微笑んだ。私の割りこみは無視することにしたようだ。私は再び質問しようとした。

「ああ、すばらしい洞察力だ。父親が失踪したと言ったか?」

 彼はうなずいた。

「ええ、そうですよ。何年も何年も昔のことです。父は才能ある石工でした。石棺を造るだけでなく、墓の設計にも熟達していましたね。シギルじゅうの人々が……」

 記憶が私の意識を引き寄せ、周囲の部屋が消えはじめた……

 まったく同じ店に立ち、老年の男と話していた。部屋の隅には子供が座り、遊んでいる。私と店主のあいだのカウンターには、一組の図面があった。彼は墓の建築に関する込み入ったことを説明しているようだ。私が図面を詳しく調べようとすると、視界が薄れた。

 視界が戻った時、私は墓の前の洞窟に立っていた。入口の上に標語が見える。『久遠が為に設計せり』と、はっきりと石に刻まれている。店主が私の隣に、満面の笑みで立っている。彼は私を手招きし、墓へと歩きはじめた。私は素早く歩調を合わせ、彼の背後で剣を抜いた……

 私はハムリスの店に戻っていた。〈溺れた国〉の地下墓地カタコンベで見つけた墓を、誰が建てたのかが分かった。そして私が、あるいは少なくとも過去の私が、その秘密を守るために建築家を殺害したことが。私が注意を払っていなかったことに、ハムリスは気づいていないようだ。彼が次に息を整えるために話を止めた時に、別の質問をした。

「父親に何が起きたのか教えてくれ」

「ある日消えただけですよ。仕事の大部分を終えぬままにね。まったく厄介でした。父の失踪で生じた借金から抜け出すまで、どれだけかかったことか。ある程度は、未だに帳消しをしているところです。まあ、私にはこの仕事にふさわしい手腕があります、そして……」

 彼は軽くため息をつき、遠くを見つめた。

 そして肩をすくめた。

「失礼、少し考えごとをしていました……私がハーモニウムに加わったのも、後に離れたのも、父の失踪が理由でした。初めは父に何が起きたのか突き止めたいと熱望していましたが、後になって父の生涯の仕事を続ける義理を感じたのです」

 彼はため息をついた。

「探し求めた答えは見つかりませんでした。何が起きたのかについては、まったくの謎でした……」

 彼の声がしぼみ、消えた。その機を利用し、私は素早く店を出た。

 店を出た後も、私たちは歩き続けた。群衆の中にギスゼライを見つけ、興味をひかれて近づいた。この女性は黄色がかった肌で、いかめしい顔立ちをしている。全身をタトゥーが覆い、脇に長い刀を携えている。彼女の瞳は小さな黒真珠のようだ。私が近づくと、その瞳はダッコンの動きを追った。そして彼女にたどり着く前に、ダッコンが割りこんだ。

「お主に聞いて欲しいことがある」

「何だ、ダッコン?」

「儂らがこの女性に話しかけぬのは、儂の意志だ」

「なぜだ?」

「彼女は〈ゼルス〉だ。儂らの意志は、交差した刃である。儂らに共通点はない」

 私は彼女と話すことに、これまで以上に興味をひかれた。それにダッコンの経験を理解できる者がいるとすれば、それはゼルスだろう。私はその場しのぎの返答をした。

「なら、彼女に話しかけなければいい」

 私たちの接近を見ていたギスゼライが、この機を選んで話しかけてきた。

「なぜお前は、その心に反してゼルシモンの不壊ふえの輪を身につけ続けることで、輪を侮辱するのだ? お前は我らの種族の中には数えられていない、シュラクトロールの裏切り者め! 反乱者と〈ゼルス〉が話せば、その言葉は遵奉される。お前がその精神を私に話すことはない……他の〈ゼルス〉に対してもな」

 ダッコンは彼女に答えた。

「このヒューマンが話すとき、お主はその言葉を聞くか?」

「彼の言葉は、お前の言葉の重みとリンボの様式を帯びている。ダッコンよ、私がお前の言葉を聞くことはない」

「彼は儂と旅しておるのだ、ゼルシモンの門弟キイッナよ。彼はお主のところに、お主がゼルスとして与えねばならぬゼルシモンの言葉を聞きに来たのだ。お主は彼の言葉を聞くか?」

 ダッコンはそう続けた。

「ゼルシモンの言葉は、ヒュ゠マンのためのものではない。彼らの精神は一致しておらず、旅するところに分断をもたらす。この者は傷と血の肌着を身につけ、裏切り者と旅している。彼の言葉を聞くよう請うなら、お前の胸の中でヴィルクアルの心臓が脈打つことになる」

 ダッコンは再び彼女を説得しようとした。

「お主の精神を彼の言葉に近づけてはどうだ? ゼルシモンの〈ゼルス〉キイッナよ、お主の精神を話す前に、お主の言葉を識るのだ」

「私は彼の言葉を聞かぬ。彼が私の言葉を聞くのだ」彼女はそう答えた。

「それで十分だ」

 ダッコンは私のほうを向き、私の言語で話した。

「彼女がお主に教えるだろう」

 ギスの女性が私のほうを向いた。彼女の黒真珠の瞳が、危険なほどに輝いた。

「お前は私に識られていない。しかしその装いが、お前の悪道を語っている。お前の体は傷と血で書かれた書物であり、ゼルシモン自身を代弁すると主張する浮浪者の影を歩んでいる。お前の精神を話すがいい!」

「こんにちは、剣の鳴らし手よ」

 少なくとも適切なあいさつは知っていることを示すことにした。しかし彼女は、苛立たしげにシッと音を立てただけだった。

「お前の冗談は塵のようだ。忌中の兆しが近づいている—時は短いのだぞ、ヒューマン。お前の質問を識らせるのだ。そしてお前が去ることが、私の意志である」

 いいだろう、礼儀正しさは差し控えるとしよう。

「ギスゼライとギスヤンキの違いを教えてくれないか?」

 彼女は少しのあいだ、いかめしい視線をダッコンに向けていた。

「ギスは我らの種族を奴隷主〈イリシッド〉の束縛から解放した、偉大なる戦士だった。ゼルシモンはその副官だ。二人が種族を解放したとき、枯れた平原にてギスがゼルシモンと対峙した。言葉が交わされ、鋼がむき出しとなった—そして一つの種族が二つとなった。雌犬の女王と共に残った者たちは、ギスヤンキという名を取った。ゼルシモンの道を歩み種族に忠実であり続けた我らは、ギスゼライという名を取った。我らの怒りは、ギスの裏切りにある」

「それでお前たちは互いを憎んでいるのか?」

「我らの種族は共に、ペナンスキの騾馬ラバのようだ—頑固で、盲目で、わずらわしい。ギスヤンキはそこに冷酷さを加えている。彼らは我らの発展を理解できず、憎んでいる」

 新しい話題に移ることにした。

「ゼルシモンのことわりを教えてくれないか?」

 私の言葉に、彼女の瞳の光が消えた。

「自らを〈ゼルス〉と呼び、私に道徳を説いた者と共に旅をし、そしてことわりを教えられるかと問うのか? 彼に請うがよい。私が教えることはない!」

 別のゼルスと話すことでゼルシモンをさらに学ぼうというアイデアは、ここまでとしよう。私は彼女とダッコンの不和に対処することにした。

「私が浮浪者の影を歩んでいると言ったが、どういう意味だ?」

「お前は浮浪者と共に歩み、彼の過去を識らないのか? 他の言葉を話すのは速くとも、過去については沈黙していると? 彼にシュラクトロールのことを、強大なる要塞がギスヤンキに陥落したことを問うがよい。そして彼の分かたれた精神が明らかにするものを見るのだ。カラチが霧のまま、どのようにゼルシモンの言葉を語るのか、問うがよい」

 ダッコンが割って入った。

「説得力を欠いておるのはゼルシモンの言葉にあらず。歪められておるのは、その木霊である」

「疑いの余地はない」キイッナは答えた。「どのようにゼルシモンの精神が語られているか、にはな。この件に関する〈ゼルス〉の心は、ブラクマの宝石のようだ。お前の態度は、分かたれた心を帯びている。疑いはお前のものだ。木霊はお前の無信仰から生じているのだ」

 ダッコンは静かに彼女の主張に反論した。

「お主の言葉はゼルシモンの精神を語っておらぬ。ギスの精神から造り上げられたかのように、陰謀と憎悪の形をしておる」

 これはキイッナを怒らせた。

「お前は移り変わる混沌の中で、シュラクトロールの死者と共に横たわることになるだろう。すべてをヴィルクアルの眼で見ているがゆえに。お前の心は分かたれている。お前のカラチは弱い!」

 私は彼らのあいだに移動した。その意図を感じたようで、ダッコンがキイッナから目をそらさずに話しかけてきた。

「留まるのだ。儂らの刃のあいだに立つでない」

 私はダッコンを識っているが、キイッナは明らかにそうではない。ダッコンが自らの死を求めたのか、あるいは単にさらなる間違いを犯すところだったのかは分からない。いずれにしても、そうさせるわけにはいかない。

「ダッコン、やめるよう私が命じる」

 ダッコンは不承不承に刃を下げた。キイッナはしばらく疑わしげに彼を見つめ、そしてその顔に鋭い笑みを浮かべた。

「ついに真実を見せたな。お前の心は分かたれてはいない。お前は……このヒューマンの奴隷なのだ。彼は反乱者の権威を持って話し、お前はそれを聞いた」

 ダッコンは静かに返した。

「お主の心は、ギスの型によって鋳られておるぞ、キイッナ」

「行こう、ダッコン」

 通行人たちに下層区について尋ね回ったが、得られたものは少なかった—通行人を眺めている人物を発見するまでは。優雅なローブを着た老人だ。その瞳は明るく、笑みは温かい。私が近づくと、彼はわずかに頭を下げた。

「いい日ですな、切者せっしゃ。わしはセバスチャン、どういったご用件ですかな?」

 私があいさつすると、彼も返した。

「こちらこそ、ごきげんよう、切者せっしゃ……」

 彼は私の傷に気づき、言葉を止めた。その視線が傷をめぐり、驚きに眉毛がつり上がった。そして彼は、私に視線を戻した。

「何かお役に立てるかお訊きしようと思うとりましたが、その必要はなさそうですな。どうしてわしのところに来たか、分かっておりますぞ、切者せっしゃ

 私は彼に、何者か尋ねた。

「わしはセバスチャン……ある種の魔道士ですな。ふさわしい方々のために、仕事を請け負っておるのです」

 彼の暗黙の申し出について尋ねた。

「なんだ……この傷のことを助けてくれるというのか?」

 彼は微笑み、肩をすくめた。

「そうかもしれませんな、切者せっしゃ

 彼は体をかがめ、私の傷を注意深く調べはじめた。何かをつぶやきながら、いくつかの傷を指でなぞる。そして彼は、私を見上げた。

「ええ、切者せっしゃ、助けることができますぞ。癒やすことはできませんが、あなたの……最悪の状態を和らげることはできます」

「料金は?」

「ああ、ええ……料金ですな」

 彼はあごをなでながら私を見つめた。私はどういうわけか、秤にかけられているような気持ちになった。彼は何らかの決断を下したようだ。

「あなたが為せるであろう仕事がありますぞ」

「わしはとある生き物と契約を交わしたのです。しかしもはや、その契約を履行することができない。それは……わしの能力を超えておるのです。しかしながら、あの生き物はわしを契約から解放せんのです。あやつは契約を履行せねば殺すと、わしを脅すのですよ」

「なるほど。その問題を私に解決させたいんだな」

 彼はため息をついた。

「ええ。わしにはできないことなのですよ。わしの評判が、契約を履行するか、さもなければ責任を取れと迫るのです。このことは、あなた次第です。助けていただけませんかな?」

「それはどんな生き物なんだ?」

「グロスクという名のアビシャイです、切者せっしゃ

 彼は間を置き、私の反応を推し量った。

「困難な仕事だということは分かっております。しかし、あなたなら対処できる。それに、素晴らしい報酬をお渡ししましょうぞ」

 彼は私の傷を身ぶりで示した。

「どんな契約を交わしたんだ?」

 彼は頭を振った。

「その情報を明らかにすることはできませんな、切者せっしゃ。魔法によって、縛られておるのです。それで人々は、わしのところにやって来るのですよ。わしが契約を受け入れれば、慎重に扱われることを知っておるのです」

 フィーンド。そんな生き物と取引すべきではなかったのだと、思わずにはいられなかった。しかし、それで彼を死なせるわけにはいかない。私が同意すると、彼は詳細を話した。

「ありがとう、切者せっしゃ。あやつを傷つけようとすれば、魔法の武器が必要となりましょう。お持ちでなければ、店をいくつか訪れることです。呪文使いも、あやつを傷つけることができますな。グロスクは、東の攻城塔の向こうで見つかりましょう」

「攻城塔?」

「ええ、この市場の向こうに何年か前にあらわれた、呪われし存在です。何のためのものなのか誰にも分かりませんし、それを解明するために中に入ることもできないでしょうな」

 私たちが今いる市場区域について訊いてみた。

「一般的な市場ですな、切者せっしゃ。様々なものが売られております。呪文、ポーション、情報、女、男……買うお金さえあれば、ほとんど何でも」

 この区画自体についても尋ねた。

「ここは下層区、普通の人々とシギルの産業に従事する人々の故郷です。〈蟲蔵むしぐら〉のようなスラムではありませんが、貴婦人区ほどの輝きを備えてはおりませんな」

 私は尋ねた。「なぜ下層区と呼ばれているんだ?」

 彼は少し笑い、肩をすくめた。

「それはあなたの見方次第ですな、切者せっしゃ。お金持ちは、ここが一般的な—あるいは—階級の者たちの故郷だからと言うでしょう。ここに住む者たちに訊けば、それはポータルと……そしてあの事件が理由だと答えるでしょう」

「あの事件?」私はオウム返しに尋ねた。

「ええ……」

 彼は眉をひそめ、しばらく考えた。

「かつてここは、主要区画と呼ばれておりました。都市に不慣れな人々はここに配置され、シギルのすべてにアクセスすることを許可されていなかったのです。他の者たちにも、様々な制限が課せられておりました……どこぞの与太者よたもんがそれに腹を立てて、反乱を企てたのですよ。もちろん、反乱は行き詰まりました—そやつが魅力的な発見をするまでは……」

「ご存じの通り、都市のこのエリアには無数のポータルがありまして、その大半が下方次元界につながっております。ええ、その泡々あわあわ与太者よたもんは、それらを一斉に開く方法を見つけたのですよ。そやつはそのポータルを通して、どんなものでも都市に招き入れることができました。それで血まみれの酷い争いが起きたのです。ともかく、それでここは下層区と呼ばれております。そのポータルが理由で」

「セバスチャン、その人物はどうやってすべてのゲートを開いたんだ?」

「とある品物を持っておったのです。どこぞから取り寄せたのか、自分でこしらえたのか。それが何と呼ばれておったか……」

 彼はしばらく考えた。

「おお、思い出しましたぞ、〈影憑きの鍵〉です……」

 その鍵の名を耳にした私は、めまいを感じはじめた。周囲の世界が凍り、すべてが灰色になる。過去の記憶が意識へ押し入ろうとするのを感じた。私はリラックスし、身を任せた。

 周囲の世界は薄れ、私はシギルの暗い道にいた。心臓が脈打ち、胸から飛び出ようとしている。呼吸がぼろぼろだ。何時間も走り、そしてまだ立ち止まることはできないようだ……

 角を曲がって路地に入り、ついに逃走の足を緩めた。近くの壁に寄りかかって息を整えようとすると、力が薄れるのを感じた。手のひらに、何かが強く押しこまれている。視線を落とし、握りしめられた拳を開くと、肉に埋めこまれた宝石が見えた。

 体が壁に倒れこみ、額がその冷たく湿った表面に触れた。目を閉じ、ゆっくりと深呼吸をする。力が戻ってくるのを感じたその時、かすかな音を聞いた。私はすぐに意識を張り詰めた。振り返り、路地の入口を見た。

 最初は何も見えなかった。夜の影によって生じた幻影だけだ。背を向けようとした時、視界の端にわずかな動きをとらえた。ゆっくりと、女性が角を滑り、停止し、そして私に顔を向けた。私の視線が彼女のほっそりとしたウエストから豊かな胸へ、そして刃に覆い隠された顔へと向かった。闇の中でさえ、彼女の感情のない冷たい瞳が見えた……

 記憶が薄れ、通常の視界が戻ってきた。市場でセバスチャンの前に立っている。彼はいくぶん心配そうに私を見ていたが、大丈夫だと看破したようだ。

「少しのあいだ、あなたがいなくなったように思えましたな、切者せっしゃ

「その〈影憑きの鍵〉はどうなったんだ?」

「誰も知りますまい。鍵はずいぶん昔に失われております。多くの者は、二度と使われぬよう〈苦痛の貴婦人レディ・オヴ・ペイン〉が奪ったと信じておりますな」

「それで、反乱の結果はどうなったんだ?」

 彼はしばらく思案した。

「ふむ……指導者以外の全員が、死者帳ししゃちょうにページを与えられましたぞ。指導者とクリーチャーたちは、ある日突然消えました。明らかに〈貴婦人レディ〉でしょうな。生存者は区画から逃げ出し、見ての通りに下方次元界の煙霧が空気を汚しました。何しろ、やがて〈鍛冶場〉が建てられるまで、この区画は見捨てられたままだったのですよ」

「その〈鍛冶場〉について教えてくれないか?」

 彼は眉をひそめた。

「そこは神人かみびとの本拠地ですぞ、切者せっしゃ。何か質問がおありなら、〈鍛冶場〉に行って彼らに尋ねてみるのがよろしいでしょうな」

 私はもう少しこの区画を見回りつつ、セバスチャンのフィーンドを追跡できるか試してみることにした。

 市場の一部は屋内になっていた。開けた長い建物で、中央のところで90度折れ曲がっている。私たちは様々な商人のあいだを歩き、一人の少年と話すために立ち止まった。

 薄い黄色の肌で、服は汚く繕いが必要そうだ。今はかまどの手入れをしている。

「こんにちは」

 彼は仕事を中断して振り返り、半笑いを浮かべた。

「どうも……助けが必要かい?」

 私は必要ないと答えた。

「そう、助けられることがあれば嬉しいんだけど……」

 少年はかまどに難儀しなくていいことが嬉しそうだ。

「なにか答えられるかも?」

「この場所は?」

「この場所?」

 彼は周囲を見回した。

「青空市場だよ。たくさんの買い手と売り手が、その日のドヤを立てるためにここにくるんだ。ボクは楽しく働いてるよ。しばらくはパパの下で、ここで働くんだ」

 彼は少し遠くを見た。

「いつかはボクが、パパの露天を切り盛りするんだ」

「この区画について話してくれないか?」

 彼はうなずいた。

「へえ、うん、ここは下層区だよ。ボクやパパみたいな一般人が住んでる」

 彼は少し目を見開き、興奮しているように見えた。

「なんで下層区って呼ばれてるか知ってる?」

 説明したがっているように見えたので、続けさせた。

「えっと、ご想像どおり、この区画は下方次元界へのポータルが山ほどあって、チーズみたいに穴だらけなんだ、ほんとにね。だからきっと、それが名前の理由だと思うよ」

 彼は誇らしげに微笑んだ。

「そのポータルから、何か生き物が出てきたことは?」

 彼の目がさらに広がった。

「うん、出てくるよ。だいたいは素通りするけど……」

 彼は怖々とつばを飲みこみ、心配しているように見えた。

「少し怖がっているようだな。自分で見たのか?」

「うん、見たんだ……」

 彼は間を置き、再びつばを飲みこんだ。

「ほんの一週間くらい前に、一組のアビシャイがポータルから出てくるのを見たんだ。それで少しだけ話し合って、片方は戻っていった。もう片方は、まだ残ってる」

 彼は眉をひそめた。

「何を話していたんだ?」

「わかんない、ほとんどしゅうしゅうって感じで。でもきっと、塔について話してたんだと思う」

 彼は肩をすくめた。

「塔?」

「うん、この区画で一番変な光景だよ。あの傷だらけの古い塔がいつからあるのか、誰にもわからない……中にも入れないよ。貞操帯よりかっちり閉まってる。中にはなにがあるんだろうね……」

 彼はしばらく考えた。

「アビシャイは塔とポータルを指さしてたんだ。きっと鍵を探してたんだよ」

「何の鍵を?」

「塔につながるポータルの鍵だよ。どんなポータルも、開くための鍵があるんだ。身ぶりだったり、物だったり、考え方だったりね……たくさんの人たちが塔に入ろうとしたけど、どれだけ頑張っても上手くいかないんだ」

 私は思案し、考えを口にした。

「中に入るための秘密は、かもしれない……」

 彼は肩をすくめた。

「どうだろね、切者せっしゃ。そうかも……」

「そのポータルの場所を教えてくれ」

 彼はしばらく考えこんだ。

「この市場の東、塔の裏に、からくりみたいなはね橋があるんだ。そこだよ……」

 彼は遠くを見つめた。

 空想にふける少年を残し、他の商人の品物を確認しながら先へ進んだ。

 私たちは青空市場を離れ、市場区域を抜け、フェンスに囲まれ煙を吐き出している建物に入った。セバスチャンが話していた〈大鍛冶場〉に違いない。

 前方の人込みの中に、とある人物が見えた。ギスゼライのように見えるが、服装は明るい。その歩き方さえ、わずかに異なっている。私の考え通りなら、ダッコンとは会わせないほうがいいだろう。仲間たちに市場の屋内に戻るように言い、そして私もすぐに続くと伝えた。

 粗い革のような淡い黄色の肌で、やせ細っている。顔は角張り、鼻は小さく高い位置にあり、耳の先はとがっている。タトゥーと傷痕の飾りが体を覆っている。奇妙で派手な革の服で、戦闘用というよりは装飾品であるように見える。二つの小さな黒石のような瞳が、近づく私を追っていた。

「お前は記憶を探しているヒューマンだな」彼は単調に言った。「私はお前を助けられる」

「お前はギスヤンキだな?」私は尋ねた。

「我らの種族の出身であることを、私は嬉しく思っている」

 彼の声はフラットだ。

「お前の記憶を取り戻すために、私の助力を望むか?」

「お前は何だ、何者だ?」

「私はイッミン。ギスヤンキの釣り師だ。我らの種族は、神々が死に、死者の記憶が池の葉のように漂うアストラル界の、明確な支配者である。我が義務は死者の記憶の核を回収し、情報を収集することにある。私にはお前の記憶の場所が分かる。お前は対価を払うだけでよい」

「その対価とは何だ?」

「せいぜい硬貨数枚といったところだ。価格は交渉することもできる。私は100枚を要求しよう。私が見つけた記憶の価値をお前が決め、それに応じて支払うのだ」

 このギスヤンキは、私を愚か者だと思っているようだ。しかし私は同意するふりをして、彼の出方を確認することにした。

「よさそうだな。私は何をすればいい?」

「お前の記憶のための釣り針にえさをつけるには、お前が今持っている記憶が必要となる。そして集中できる静かな場所が必要だ。我々はそのような場所に行き、そしてお前は再び完全となるだろう。我々は仲間を伴わず、二人で行く」

「同意した。行こう」

 私たちは路地へと歩いて行った。そこで半ダース以上のギスヤンキに取り囲まれた。イッミンの雰囲気が、それまでの横柄なものから険悪なものへと変わった。

「さあ、ヒューマン、ペンキを塗り立てた盾を捨て、シギルの壁の中でギスゼライの犬どものために何をしていたのか話せ」

「私の記憶を探しに行くんじゃなかったのか?」

 皮肉を込めてそう聞いた—ギスヤンキが理解できるかは分からないが。

「お前がアストラル界へと旅する唯一の方法は、鎖につながれることだけだ、ヒューマン。シギルの壁の中でギスゼライの犬どものために何をしていたのか、話すチャンスをもう一度やろう」

「何も話しはしない」短くそう答えた。

「ならば死ね」

 彼は武器を引き抜き、襲ってきた! 私はただそこに立ち、殺されるがままにした。イッミンの刃が喉を切り、私は血を吹き出しながら地面に倒れた。彼らが私を見下ろし、そして再び喋りはじめた。

「こやつは本当に何も知らなかったのか、アル゠ミディル?」

 別の声が答えた。

「彼の言葉は、我らの種族の敵のものだ。真実でないとしても、我らは彼の無知を死という鉄で焼灼しょうしゃくする。ここに放置すれば、収集家が回収するだろう。此度の旅のためのギスゼライの犬どもに関する情報は、十分に集めた。七曜が過ぎる前に、奴らは再び要塞を失うだろう。ヴリスティゴールの城壁が落ちるのだ」

「我らの知識が十分であると信じるならば、」イッミンが言った。「行くとしよう。戦士を集め、リンボにおける戦争の宴に加わるのだ」

 重大な負傷による結果を、意志の力で押しとどめるのはそれが限界だった。私は死へと滑りこんだ。

 しばらくして、同じ路地で目覚めた。素早く確認すると、持ち物はすべて無事だった。あのギスヤンキは明らかに虚偽や殺人を奉じていたが、死体をあさることは彼らの“名誉”にもとる行為であるようだ。

 私は屋内市場に戻った。当然ながら仲間たちは、なぜこれほど時間がかかったのかをいぶかしんだ。モーテはいつも通りにじれったさを表現した。

「ああ、いこうぜ、足を動かすんだ。つまり……アンタの足をな」

 私に起きたことは伝えず、ゼルスのキイッナのところに一緒に戻るよう求めた。少し捜す必要があったが、やがて彼女を見つけた。彼女は、私と共に戻ってきたダッコンをにらんだ。そして、攻撃してみろとでも言うかのように背を向けた。

「よせ、キイッナ。お前はヴリスティゴールの要塞に詳しいか?」

 彼女は私に鋭い視線を向けた。

「浮浪者の影を歩みし者よ、どうやってその名を識った?」

「ギスヤンキの一団が、七日以内にその要塞の襲撃を計画している。彼らは今もそこに向かっている」

「……識れ……私はお前に感謝していると識れ……お前と、その〈ゼルス〉に。この恩が忘れられることはないと識れ」

 彼女はダッコンのほうを向いた。

「シュラクトロール陥落の償いにはならぬと識れ。反乱者の評決は、未だ有効である」

 以前キイッナは、ギスゼライのことを何と言っただろうか? 頑固で、盲目で、わずらわしい。私はキイッナにもダッコンにも声をかけず、歩き去った。

 私たちはフィーンドの捜索に戻った。徐々に道行く人が減っていく。前方にそびえ立つものを目にした私は、その理由を理解した。巨大な攻城塔が周囲の建物の中に突き刺さり、道をふさいでいるのだ。その壁は傷つき、まばらに穴が開いている。その生涯で、数多くの戦いを目撃してきたのだろう。塔の上部のはね橋が下がれば、攻城塔から都市の壁へ攻撃者が接近できるようになっている。

 その塔の影の中に、爬虫類の生き物が見えた。蛇のような体、四本の爪のある足、革のような羽根、そしてドラコニアンの頭。体を覆う鱗は下品な緑色だ。その生き物は後ろ足で直立し、物をつかむことができる尻尾でバランスを取っている。私が近づくとは目を細め、しゅうしゅうと音を発した。

 周りの空気が熱を放射しはじめ、鱗が淡い輝きを帯びた。は私に飢えた目を向け、襲いかかる準備をしているようだ。そして突然しゅうしゅうと息を吐き、わずかに態度を緩めた。

「シュシュシュ! 去れ。グロシュシュシュク喋らない、待て言った……シュシュシュ……」

 は私をにらみ、尻尾を前後に揺らした。

「セバスチャンに送られてきたんだ」

 グロスクは少し緊張を解き、空気が涼しさを取り戻した。は、かぎ爪の手を私に差し出した。

「シュシュシュ。グロシュシュクに情報よこせ」

「何の情報だ?」

 爬虫類のフィーンドの表情を読むのは難しかったが、グロスクは私に苛立っているようだ。尻尾が激しく揺れ動き、空気が再び暖かくなった。

「質問はなしだ。グロシュシュクに情報よこすか死ね。グロシュシュクはそれで死体から情報とる」

「どんな情報が必要なのか知る必要がある。私はいくつも使いをこなしているんだ」

 彼は考えこみながら、しばらく私をにらんでいた。そして近くの塔を身ぶりで示した。

「攻城塔だ。シュシュシュ。どうやって入る。セバスチャンが見抜く言った……」

 グロスクは一歩近づき、手を差し出した。

「さあよこせ!」

「本当は……」私は答えた。「お前を殺すために、セバスチャンに送られてきたんだ」

 彼は即座に襲いかかってきたが、私たち四人でそれほど問題なく対処できた。

 一日の終わりが近づいていた。そして私は、さらなる“死”から回復する必要があった。今夜は休み、セバスチャンとは翌朝話すことにした。


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