私たちは、アンナが〈吐息が居残る裏通り〉と呼ぶ場所にいた。複数の路地が幾重にも連なり、荒れ果てた建物とがらくたの山へと伸びている。
前方からハンマーを打ちつける音がした。音の発生源に近づいてみると、ダバスだった。周囲には誰もいない。シビルもどこかへ消えていた。私は興味本位で建物の一つを調べてみた。驚いたことに、その中で死体が見つかった。
ダバスの死体だ。腐敗臭が強い。そして、こわばった異常な体勢から、かなり以前に極度の死後硬直が広がったように見える。しかしどういうわけか、私はこの光景に心をかき立てられなかった。
死体に〈
視界がしばらく暗転し、ハンマーで打たれるような痛みは消えた。闇が晴れ、ハンマーを打ちつける音が建物の外から聞こえる。霧を通して見ているかのように、なぜか建物全体がかすんでぼやけて見える。
突然ハンマーの音がやみ、建物に入ってくるダバスの奇怪な姿が見えた。すると窓と扉が水のように変化し、入口をふさいだ。ダバスは振り返り、しばし固まり、そして部屋をゆっくりと回りはじめた。それぞれの壁を検査するかのようにハンマーで叩き、調べていく。
部屋を巡り終えたダバスは、入ってきた“扉”のそばで止まった。そしてハンマーで叩き、その石を削りはじめた。しかし叩いたそばから、壁がひとりでに修復していく。視界が暗くなり、ハンマーの音は続く。最初は一定のペースで、そして徐々にゆっくりと、ゆっくりと……
ハンマーの音がやみ、視界が晴れた。私は再び、ダバスの死体のそばに立っていた……彼はこの建物に囚われ、ここで衰弱死したようだ。
建物を出て、私の死体を見つけた場所に向かうアンナに続いた。少し階段を下り、袋小路に入った。そこで彼女が、地面の一点を指さした。
「ここよ。ここで倒れてるあんたを見つけたの」
彼女が示した地面を
「これは何だ?」私は疑問を口にした。
「分からないわ」
アンナは神経質にダガーに触れながら、信じられないといった様子で顔を見つめている。
「でもなにか分かる前に、私は逃げるわよ?」
私は躊躇した。何かがある……突然、周囲で強い風が吹きはじめ、空気が不気味なため息で満たされた。風が強まり、他の音も聞こえてきた。板材のきしみ、木々のざわめき、そして石をこすり合わせるような音。数分して喧騒が個々のノイズの不協和音に変わり、混ざり合って一つの明瞭な音に変わった。声を聞き分けることができた。柔らかく、しかし周囲から同時にやって来るかのような声を。
「お主か? お主であるわけがない」
「私を知っているのか?」
そう答えた。周囲の風はやんだが、どういうわけか声はまだ存在している。
「再び復活したのか? 我はお主が倒れたのを見た」
「倒れた? どこでだ?」
「ここで、我の前でだ。我の内にあれば、すべてが見える」
「私に何が起きたか、知っているのか?」
「影を投げかけぬもの……すなわち影。彼らがお主を取り囲み、破壊した。覚えておらぬのか?」
私は周囲の音を構成する奇妙な声に集中した。心のどこか奥底で、記憶がかすかに揺れている。この声に漠然とした親しみがあるように感じる。
目を閉じ、思い出そうとした。そして断片を、人型の影に囲まれて立つ私の記憶を、取り戻すことができた。彼らが近づき、襲ってくる。私は死に、そしてアンナが死体を見つけたのだろう。
「そうだ……思い出したのだな」
路地の声が耳の中に響き、心の中のイメージが霧散した。私は現在に戻ってきた。
「破壊された。我もすぐにそうなる。もはや分断を止められぬ。すぐに石は砕かれ、浮かびし者が我を直し、破壊するだろう」
「死にかけているのか?」
「圧力が大きすぎる。内に折りこまれた場所が多すぎる。十分な場所がない。分断せざるを得ない」
アンナが口をはさんだ。
「ああ、つっかえてるのね」
「どういうことだ?」
「ご懐妊ってことかしら」アンナが答えた。
モーテが加わった。「マジか。じゃあ今オレたちが立ってるこの場所は……?」
「そんなこと、考えたくもないわ、モーテ」
声は私の仲間を無視し、喋り続けた。
「分断する我を助けてくれ。分岐させてくれ。広げさせてくれ。新たな穴が開くだろう。それを使えば、下層区へ行くことができるかもしれぬ」
「何が必要なんだ?」
「浮遊せし者が、我の上にいる。修復している。我の分断を防いでいる。我はその修復を元に戻す。しかし彼の者は何度でも戻ってくる。新たに修復する。浮遊せし者を、取り除かねばならぬ」
その言葉が暗示する行為が好ましいのか、私には分からなかった。
「この路地のダバスを、殺して欲しいのか?」
「取り除け。さすれば後に、我は分断することができる」
〈
ダバスは先ほど見かけた場所の近くにいた。このエリアを離れるよう説得できる可能性は、ほとんどないだろう。そして仮に説得できたとしても、すぐに戻ってきてしまうことは間違いない。
しかしながら、方法はあった。私は彼に近づき、この路地で別のダバスの死体を見つけたと伝えた。彼は思った通りに興味を示し、ダバスが死んでいた家に急いで入っていった。
少しのあいだ、私は自分の力に得意になっていた。周囲の者たちを簡単に意志に従わせることができるようだ。彼らの取るに足らない命への影響を、気取られずに。しかしそれは、少しのあいだだけだった。
私はあのダバスを、頭をはねるのと同じくらい確実に、死に送りこんだ。それによって他の者の命を救うのだと言うこともできる。しかし彼は、何ら間違ったことをしていなかった。そしてこれは、私が則りたいどんな善悪の尺度とも異なっている。
ダッコンとモーテが知る過去の私のことを考えた。少しのあいだ惹きつけられていた道をたどれば、行き着く場所はそこだろう。私はその誘惑について確認し、本当に惹きつけられるものではないことを確かめた。先に進む時だ。
壁のところに戻った時、
幸運にも、私は〈葬儀場〉で拾ったバールを持っていた。さらに即席のハンマーを使い、ダバスの仕事を元に戻すことができた。
再び壁のところに戻ると、
「しかり。すべてがあるべき状態だ。我は嬉しいぞ」
再び周囲に風が、今回は猛烈に吹いた。路地に偏在する騒音が激しさを増し、柔らかな声のざわめきがかき消えそうになる。
「さあ、行け。分断が始まる。お主のための道は開かれた」
石の顔が再び変形しはじめた。塊が移り変わり、濁り、目の前の壁が溶けて狭い通路があらわになった。足元の地面が突然激しく揺れはじめ、柔らかな風の吐息が強まり、人のうめき声のように聞こえる。私たちが通路へと殺到する周囲で、石が砕け、板が割れる音が鳴り響く。
建物がひとりでに配置を変えていくエリアの外まで、私たちは一気に走った。振り返ると、背後の路地と建物の配置は、完全に変わっていた。