プレーンスケープ トーメント 非公式小説

燻る死体

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 あてもなく街路を歩いていると、客曳きゃくひきが通行人を呼びこんでいた。

「さあ、らっしゃい、燃える男をご覧あれ! 消火に挑戦だ、飲み物を買ってやろう。喉が渇いてるぞ、火がついてるぞ、赤熱してるぞ。さあ、らっしゃい。どういうことだか、ご覧あれ!」

 私は足を止め、客曳きゃくひきの後ろの建物を一瞥いちべつした。立ち止まった私を見て、彼が叫んだ。

「らっしゃい、切者せっしゃ! らっしゃい、切者せっしゃ、ぜってえ気に入るぜ!」

 この建物は、見たところ酒場だ。情報を集めるにはいい場所だろう。私は中に入った。驚いたことに、床で赤熱する鉄格子の上で、空中で身をよじる死体が本当に燃えている。

 その近くに女性が立っていた。顔と腕にうっすらとあざがあり、くぼんだ目の中には絶望的な切望が見える。かつては可愛らしかったのだろうが、今は昔のことだ。彼女はゆっくりと私に顔を向けた。その表情に命が注ぎこまれ、瞳の中に冷笑的な光がきらめいて見えたのは、目の錯覚だろうか。

「〈くすぶる死体亭〉へようこそ、傷だらけさん」

「お前は誰だ?」

「私? 私はドルシラ。あなた、脳無のうなしに違いないわ。どうして分かるかは訊かないで。見れば分かるから」

 彼女の言葉を無視し、質問した。

「この場所について話してくれないか?」

「ここ? 〈くすぶる死体亭〉よ。くすぶってる男は、まだ死んでないけれど。誰かが助け出してくれるまで、彼は自分を生かし続けるだけ。ここには苦しむ人を見るのが好きな鹿馬かまどもが来るわ。フィーンドどもがね。邪魔されたくない人たちもやって来る……店の名前が、与太者よたもんを寄せ付けないからね」

「入り口近くで燃えている男は、誰なんだ?」

 彼女の顔に見えていた絶望が、黒い翼が生えた影のように再び横切ったが、彼女はなんとか感情を抑えたようだ。

「イグナスよ。この汚水だめでしかないスラム街からあらわれた、最も偉大なウィザードの一人。奴らが彼を捕まえて、その体に火の元素界への導管を開いたの。今の彼は火の元素界への扉となって、意志の力だけで生き続けてる。誰かが一瞬でも火を消せれば、彼の生は戻ってくる—でも、そんな量の水を作れる人はいないわ」

 私は燃えている死体のことを、しばし考えた。何らかの方法があるように思える……まあいい。

「彼とはどういう関係だ?」

 彼女の返答は、深い痛みに満ちていた。

「私はイグナスの恋人だった。彼は私の最愛の人だったわ。彼は私よりも炎を愛して、今は炎になってしまった—そして私は彼を愛してるから、その炎も愛してるわ……でも、すべてはもう終わったこと。私は彼が火を消すのを待ってる。なけなしの持ち物を売りながら、彼の近くにいるの」

 私は彼女の悲しみに背を向け、バーテンのほうへ向かった。革のような皮膚をした男で、顔がわずかに灰色がかっている。歯が通常より鋭く、瞳にはあまりにも多くのものを目撃した倦怠感が満ちている。彼は鼻声で、早口だった。

「またお前か? 今度は何の用だ?」

「『また』? どういう意味だ?」また私を知っている者か。もう諦めつつも、そう質問した。

「ああ、『また』だ。今度は難聴か何かを抱えてるのか? 15年くらい前に来て、グビを全部空にして、この場所を滅茶苦茶にして、被害にまったく足りない硬貨を残していっただろう。それでお前は自分の血まみれの眼球を引っこ抜いて、硬貨200枚が集まったら取り戻しに来ると言った。15年分の利子で、硬貨500枚だ。お前はジャラを持ってるだろう。俺はお前の眼を持ってるんだ」

「500? あり得ない!」

 彼はしばらく考えた。

「そうだな。こうしよう。300よこせ。そうすれば、眼はお前のものだ」

何かに駆り立てられ、私は同意した。

「それで手を打とう。ほら、お前の金だ」

「交渉成立だ」

 彼はポケットから、ろうで封がされ、黒ずんだ広口の瓶を取り出した。その中からパシャパシャという音と、重いグチャグチャという音が聞こえてくる。開けてみると、何らかの防腐剤の臭いに息が詰まりそうになった。ねばねばの汚物の中に浮かんでいるのは、眼球だ。

「どうするかよく考えた方がいいぞ……今お前は、そいつを空気中に露出させた。酢漬けの卵は瓶に入れておいたほうがいい。決断しろ、切者せっしゃ……酢漬けの卵を、どうするんだ?」

 有り金をほとんど払ってしまったことが信じられず、しばらく眼球を見つめていた。そして現状維持を考えてしまう前に、行動した。

 眼孔に指を入れると、眼球が手のひらに飛び出た。バーテンが視神経を切断し、私の手をバーに置かれたねばつく瓶へと導いてくれた。眼を保存液に落とし、古い眼球を指で包み、眼孔へと滑りこませた。一連の作業における痛みは途方もないものだった。しかし、しばらくすると視神経が新たな眼球に接続するのが感じられ……そして突然、記憶の閃光せんこうに襲われた!

 記憶がよぎる。絶え間なく変化する混沌とした荒れ地が広がっている。人型のハゲワシたちが殺到する。残忍な武器が襲いかかる。私の手のなかには、輝く剣がしっかりと握られていた……

 記憶がよぎる。三人に囲まれている。軍服を着ているが、どこのものかは分からない。彼らの手には、輝くダガー。そしてむき出しの歯が残酷に光る。傷だらけの自分の両手を見た。彼らがすぐに血にまみれることを、私は知っている……

 記憶がよぎる。巨大なカエルのような生き物が無秩序に飛び跳ねながら、歯がびっしりと並ぶ口を開けて襲いかかってくる。私が投げつけたジャベリンが、移り変わる物質を通り抜け、その生き物を石柱へとつなぎとめた……

 失っていた戦闘技術を思い出したことに気づいた。

 バーテン(彼の名前はバーキスらしい)に、さらにいくつか質問をした。酒場にはフィーンドのカップルも含めて、かなりの数の客がいた。そこで私は、助けになりそうな者がいないか尋ねた。彼は短いリストをくれた。私は客たちと話すために、話を切り上げた。

 あふれるような灰色のひげにライオンのようなたてがみの、やや猫背の老人を目にした。彼は一対の肩当てを鎧として身につけ、近くにヘルムを置いている。腰にタバコの袋を下げ、パイプを吹かしている。とても強そうに見えるが、多少ふっくらとしていて、呼吸に何らかの問題を抱えているようだ。

「おいおい、こいつは壮観だ! そんな多くの傷に包まれた男なんて見たことがねえ—傷の外套がいとうを身にまとってるみてえだな! どこから来たんだ—脱穀機の中でもうろついてたのか?!」

 彼は笑った。

「おっと、ただの冗談だ。悪気はねえ、腹を立てねえでくれ。おれはエッブだ」

 彼は手を差し出した。

「こんにちは、エッブ」

 彼の握手は力強かった。

「さて、道義に反した冗談について、謝らせてくれ。気を悪くしてなけりゃいいんだが。丸く収めるためにも、何かおごらせてくれねえか?」

 怒ってなどいなかったが、うなずいて同意した。

「そうこなくっちゃな! ちょっと待っててくれ」

 彼は立ち上がり、バーに向かった。しばらくして、二杯のジョッキを持って席に戻ってきた。

「ほらよ。飲もうぜ!」

 彼は自分のものをゴクリと飲み、パイプを吹かしてこう言った。

「こんな素晴らしいシギルの一日に、年寄りエッブが助けになれることはあるか?」

「この場所について、いくつか質問がある」

「おっと、お前さんを茶化したときから、そいつは分かってたぜ。つまり、お前さんはここらの出身には見えねえからな……年季が入った地元民より、少しばかり元気がねえように見えるぜ!」

 エッブはクスクス笑い、酒を飲んだ。

「それで、何が知りてえんだ? 地勢を知る必要があるんだろ?」そう言ってウィンクした。

「お前は誰だ? そして何をしている?」

「ハーモニウムの第三序列、エッブ・クリークニーズだ。今は引退して、声を絞って客曳きゃくひきをやってるぜ。数十年前みてえには動けねえからな!」彼はそう言って笑った。

「ハーモニウムの第三序列?」

 エッブは少し得意げに、威厳のある表情を見せた。

「ああ、ハーモニウムの第三序列だ……」

 そして少し弛緩した。

「もう何十年も、出兵には参加してねえがな。あの戦いや争いの後で、羽根ペンを握るのは性に合わなかった。だから〈蟲蔵むしぐら〉で状況を見ながら時節を待ちつつ、自分にできる手助けをしてるんだ。そんでお前さんは、手助けが必要に見える……何かトラブルに直面してるんじゃねえか?」

「どんな戦いや争いに参加したんだ?」話題をそらされることを拒み、そう訊いた。

「覚えられねえくらいだぜ!」エッブは目を回した。「まあ……少なくとも、覚えられねえくらいだな。〈流血戦争〉の長大な旅に参加したり、テラスの虚言戦争の地獄のようなゴタゴタや、暗黒世紀戦争には何年も何年も……」エッブは戦争の数々を、黙々と指で数えはじめた。「……ああ、それで三次元界戦争があったな、他にも山ほど、ハーモニウム解放戦線にも加わったんだ。そうだ、終わり頃にはシギル都市警備隊にもいたぜ……それが一番危険だと言うやつもいるかもな!」

 彼は大声で笑った。〈流血戦争〉という言葉が、心臓に差しこまれた冷たい短剣のように感じられた。私は彼に、〈流血戦争〉についてもっと話すよう求めた。

「ああ……〈流血戦争〉か。原始のスープまでさかのぼれるとも言われる、最も危険な内輪もめだ。一方は意地の悪いフィーンドの暴徒、もう一方はフィーンドの戦争屋の一団。創造が引き起こした戦争で、それ以来やつらは互いをむさぼり食ってんだ」

「自分のことしか考えねえ凶暴な殺人鬼タナーリ、戦争機械のバーテズゥ、すべては地獄の規則に基づく法と命令のために。その混乱は時々他の次元界にもあふれ出て、この多元宇宙を住みにくい場所にしやがる」

 私が探している男について、彼が何か知っているかもしれない。

「ファロドという名前の収集家について、何か知っているか?」

「まあ、ファロドのやつについて知るべきことは知らねえが、やつの周りのやみについてなら知ってるぜ。お前さんがあの蜘蛛を見つけ出して壁にくぎ付けにすると決意してんなら、お前さんが何に巻き込まれてるのか分かるうたいをばらせるかもしれねえ」

 彼はパイプを詰めるために、言葉を切った。

「ファロドは最近、〈くず拾い街〉に深い巣を掘って、収集家とギャングを集めて、寄せ集めの党閥とうばつとも思えるものを始めたらしい……本当のところは分からねえが……」

「彼はどこに?」

「あー、もしファロドを捜してんなら、お前さんはなかなか泡々あわあわだと言わなきゃならねえぞ。踏みならされた道を、少しばかり外れてる。やつを見つけてえなら、〈くず拾い街〉に行け。うたいによれば、ファロドはそのどこかにドヤを構えてる。輪を何周もした俺みてえな年寄りでさえ、正確な場所は分からねえ。ファロドは自分の居場所を秘密にしておきてえんだろうな。必ず見つけると決意してんなら、〈くず拾い街〉に行って、地元のやつらから居場所を聞き出すんだ。気をつけろよ。あの場所には、お前さんを見つけ次第、その腸でハープを作ろうとするようなやつらばかりだ」

 その後私はこの都市について、知りたかったことを質問した。

「シギルの構成を教えてくれ」

「ふう。舌を湿らせてくれ」

 彼はジョッキから一杯飲んだ。

「この都市は際限ねえ高さの塔—〈巨塔〉の上に浮かんでる。捨てられた荷馬車の車輪みてえに横になってるが、〈巨塔〉につながる輪止めはねえ。シギルは6つの区画に分けられて、それぞれが独自の役割を持ってる。今お前さんがいるのは〈蟲蔵むしぐら〉だ。〈蟲蔵むしぐら〉の役割は、偉大な他の区画に対して、むさ苦しくあることだろうな!」

 彼は笑った。

党閥とうばつ—哲学的な組合、もしくはギャングと呼んでもいいかもな—が、この都市の運営を分割してんだ」

「お前は党閥とうばつに参加していたのか?」

 エッブは私を止めるかのように手をあげ、わずかに笑った。

「おいおい、待ってくれ—おれは党員崩れってわけじゃねえ……かつてハーモニウムなら、一生ハーモニウムだとも言われるが、それは正しいんだぜ。おれたちはシギルからトラブルを退けようと努めるブラッドなんだ。巨塔を揺るがすことも、人々が互いに傷つけ合いすぎることもねえように、町のうなり声を抑えてる。俺たちは平和を守ろうとしてんだ。そんで大抵の場合、しっかり務めを果たしてる」

 別の質問が心に浮かんだ。

「〈貴婦人レディ〉について教えてくれ」

「ふむ、彼女について知ってるやつは少ねえ。そんでおれは、少なからず知るだけでも知りすぎだと思ってる。彼女はミステリーだ。そして彼女に出くわすだけでも……神威かむいをも恐れぬ所業だ……彼女は無口で、致命的なんだ。邪悪ではねえ、公平だ。だが彼女は自らを隠し、シギルはとても厳格な町になってる。何者も侵入することはできねえ。そんなことをしようものなら、〈迷路〉に落とされる」

 すでに自分で体験した〈迷路〉について、彼に尋ねた。

「ああ。時々ブラッドが、害を及ぼせねえ場所に送りこまれることがある。〈貴婦人レディ〉だ。彼女がシギルを少しいじって、小さな次元のポケット、〈迷路〉を創るんだ。彼女は刃向かう者をそこに入れて、朽ち果てさせる」

 エッブはパイプを吹かした。

「……〈貴婦人レディ〉に目をつけられたら、〈迷路〉から逃れることはできねえぜ。どれだけ避けても、必ず彼女に捕まる。路地を歩いてたり、ポータルを通り抜けようとしたり、歩き慣れた道を左に曲がろうとした瞬間に、見覚えのねえ場所に飛ばされるんだ。まあ、〈迷路〉は脱出不可能ではねえ。必ず一つは出口がある……〈貴婦人レディ〉が設置したポータルが。そいつを見つけて、使い方を解き明かさなきゃならねえけどな」

「〈貴婦人レディ〉の話に戻ると、本当に悪いことをしねえ限り、彼女に会う機会はねえ……多くの人を傷つけたり、ダバスを殺したり、彼女の支配に挑んだり、彼女を崇拝したり……彼女はそれを嫌うんだ。それかダバスの仕事を邪魔したり。それは〈貴婦人レディ〉の仕事を邪魔することと同じだな……運がよけりゃ、慈殺者じさつしゃが来るだろう。だが彼女が来たら、その影がかかった瞬間に死ぬ」

「まあ、〈貴婦人レディ〉はシギルで、おれたちが想像できることはほとんど何でもやってんだ。シギルを大きくしたり小さくしたり、新しいポータルを創ったり古いポータルを封じたり、道ばたで〈流血戦争〉が巻き起こらねえようにしたり、部外者がテレポートで町に入るのを防いだり、神威かむいたちを退けたり」

神威かむい。神々の別の呼び名だ。次元界じゅうに大勢いるぜ」

 エッブはパイプを一服した。

「だがシギルには入れねえ……〈貴婦人レディ〉には、彼らを締め出す手段がある。彼女がそのうたいをもらしたことはねえが、仮にそうだとして、それがシギルが外部の勢力に襲われねえ理由だな」

 エッブとテーブルを共有しながらも、今まで黙っていた人物のほうを見た。穏やかに遠くを見つめている、優しそうな男だ。柔軟な革の服をまとい、ロープやくぎや火口箱や空の瓶など、様々な道具を帯びている。彼は文字通り、半分消えているように見える。実体が部分的に吸い取られているかのように、存在が空虚だ。私に焦点を合わせると、その視線が突然確固とした興味深げなものに変わった。

「探求者よ、こんにちは」彼はそう言うと注意深くマグを置き、私に注意を向けた。

「私はこの多元宇宙の深遠を目撃し、それを伝えるために戻ってきました。死した神々の上を歩み、金切り声をあげる何千ものギスヤンキの騎士を前に、アストラル界で月光を紡いでいました。存在の淵を越え、自分の実体が震え抜けるさまを目にしました。どのようなご用件でしょうか?」

「お前は?」

「私はカンドリアン・イルボーン。旅人、空想家、物語の紡ぎ手、そんなところでしょうか」

 しばらくのあいだ、彼と様々な次元界について話した。物質そのものであり、真の物性そのものである内方次元界。内方次元界へと染み透り、定命者の世界である物質界の属性を形作るエーテル界。物質界で信念が生まれ、そこから外方次元界を創造する魂が生まれる。常命の者が死ぬと、その魂はアストラル界を通り抜ける。

 外方次元界とそこに住む者たちは、信念と思考と信仰によって創られ、構成されている。外方次元界は旅人たちによって〈大いなる転輪〉に区分され、シギルもその一部である。私はこの〈大いなる転輪〉にすぐに興味をひかれ、それを構成する次元界について詳しく質問した。

 秩序の上方次元界。その次元界について話す時、カンドリアンはわずかに震えていた。

「私は秩序の次元界について、十全にお話しすることはできません」彼は言った。

「その生来の構造と無限の紋様が、私を怖がらせるのです。得られる知識よりも私の個人的な人格のほうが大切ですから、秩序の次元界は避けるようにしています。そこには、善に近く厳格に管理されたアルカディア、確固たる秩序のメカヌス、そしてアルコンの故郷であり銀海の孤島であるセレスティアがあります」

 中立の下方次元界。

「中立の次元界ですか? 下劣で理解し難く、貴方が想像し得るよりも狡猾な次元界です。例えばゲヘナは無限の虚無に浮かぶ、段階的に休眠する四つの火山です。それらはどういうわけか生きていまして、何らかの手段で貴方の魂を手に入れるべく待ち受けています。そこに住んでいるのはユーゴロス—私の意見では最悪のフィーンドであり、そのことは貴方も得心してくださることでしょう。究極の悪の次元界は—少なくともそう呼ばれているのは—〈灰色の荒野〉、貴方の体と精神から色を吸い取り、無関心すら吸い取る場所です—そしてそこは、〈戦争〉において最悪の戦場でもあるのです。口にするのもはばかれますが……その混沌側にはカルケリが存在します……」

「ああ、カルケリとその毒の密林、酸の湿地、有毒の水、それらの堕落した真珠はひものように連なり、それぞれの中にも別の真珠が位置しています……」

 彼は言葉を止め、再びその視線の中に私をとらえた。

「これを覚えておいてください、探求者よ。カルケリは牢獄です。最も危険な種類のフィーンドであるゲレレスの故郷なのです。牢獄の強さは捕縛者の強さであり、それは囚人が許すほどに強大になります。紅き牢獄を脱出するには、看守を破壊することです。ゲートが閉じられれば、他に道はありません。その球体を取り囲む広大な空間に投げ出される以外には、ですけれどね。カルケリに注意してください、旅人よ。その束縛は、肉体を凌駕するものなのですから」

 秩序の下方次元界。

「私は秩序の上方次元界の秩序を嫌っていますが、少なくともそれらの次元界は多少の善性を示します。しかしながら、下方の次元界は対照的です……アケロンは立方体が跳飛する場所であり、死んだ人の魂が群れ、戦いが終わることはありません。バートルは……」彼は思わず震えた。「バートルは最も避けるべき場所です。そこで目にするフィーンドたちは、常軌を逸した退廃が、魂のない秩序だった機械として具現化した表出そのものなのです。階級制度と秩序に関するすべての悪はバートルに源を発し、それは染みのように常命の者の心に広がります。そこで見つかる知識もありますが、与えられる精神的な破壊に値することは稀ですね」

 混沌の下方次元界。

「アビスは訪れることを考えるべき場所ではありません。バートルが秩序だっているのに対して、アビスは混沌と変化に満ちており、愉快なものではありません。アビスがおおよそ普通になったとき、それは最も警戒すべきときです。そこは大半の主者しゅしゃが〈デーモン〉と呼ぶタナーリの故郷であり、彼らにはそう呼ばれるだけの理由があります。気まぐれかつ残忍で、信頼できる者はごく一握りです。私が出会った信頼できる者たちも、私は完全に信頼しているわけではありません—彼らは混沌の生き物であり、悪の化身なのです。彼らが友好的な顔をしている場合に、それが長大な計略の一部ではないと、誰に分かるでしょうか?」

 境界次元界。

「私の考えでは境界次元界は二つあり、それらはまったくの正反対です。その一つ、メカヌスはまさに秩序の真髄であり、そこでは次元界そのものである巨大な機械の中で信念が結合し、連結し、回転しています。メカヌスの歯車は、次元界を駆動するエンジンであると考える人々もいますね。もう一つの次元界は、まったくどんな規則にも従わない、渦巻く混沌の沼地、リンボです。そこでは人がその振る舞いを規定したと考えた場合にのみ、変化がもたらされます—もしくは、変化などないかもしれません。貴方には分からないでしょう。私は最近、リンボにいたのです……」

 彼は思い出しながら目を閉じた。

「ギスゼライの案内人と一緒でした。次元界の非論理的な物質の形を、意のままに変えることができる反乱者です。私たちは、あの次元界を故郷と呼ぶ混沌の生き物、スラードの執拗しつような攻撃を撃退したところでした。通常よりも多いようでしたが、リンボでは誰も“通常”を規定することなどできません……話が逸れてしまいましたね。その混沌の真っ只中で、何らかのパズルのような巨大な金属の立方体がつなぎ合わさっているところに出くわしました。それは意識的にせよ無意識的にせよ、私たちが形作ったものではありませんでした。その中に入る方法も分かりませんでした。それはまるで……無秩序という制限の中にある秩序の砦、あるいは法則の種のようでした。私に説明できるのは、こんなところでしょうか」

 アウトランズ。

「アウトランズは完全なる中立です。次元界の道徳性を押しつけられたくないのであれば、シギルを除いて、最も訪れるに適した場所でしょう。アウトランズではすべてが釣り合っています—外方次元界の中央に座す次元界として、あるべき通りに。ここには神威かむいの領域が点在し、また他の外方次元界へと開かれた〈門扉街もんぴがい〉が少数あります。門扉街もんぴがいは通常、そのゲートが開かれている次元界の哲学を反映しています—そして信念の調和が保たれていない場合、街はその次元界へと滑りこんでしまいます。街の人々で変化を望む者は少ないですから、それは誰にとっても酷い状況となりますね」

 彼は負の物質界から帰ったばかりだった。そのことを尋ねると、彼は目を曇らせた。

「私は自分の本質を見つけるために、内方次元界へと赴きました。そして自分の体の腐敗衝動と、生における死の循環について理解するために、負の物質界を訪れるという過ちを犯しました。あの次元界の悪影響は魔法によって防ぐことができると考えていたのですが、それは間違いでした。無限の無の闇が私の魂に襲いかかり、私の魂自身を消そうとする影に包まれました。時への道に迷い—永遠への道に迷い—そして存在を失うところでした。自分の実体が離れるのを感じました。そして今も、半分は消えています。二度と戻ることはないでしょう」

「どうやって生き残ったんだ?」

「どうやって生き残ったか、ですか?」

 彼は硬い表情で微笑んだ。

「無を押しとどめる無の欠片によって、です。ご存じの通り、無を止められるものはありません。ですので、私は自分を守るために、手のなかに無を持っていたのです。究極の無へと旅する計画はおありですか? 貴方から、自暴自棄の気配が感じられます。ですから、これをお渡ししておきましょう。影に包まれたときは、それを手に持つのです。そうすれば、貴方や友人を守ってくれることでしょう。彼らが貴方の近くにいれば、ですけれどね。ふふ」

 彼から小さな黒い印を受け取った。それは、まったく次元性がないように見えた。


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