プレーンスケープ トーメント 非公式小説

葬儀場

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 夢を見ていた。死体安置所の死体置台スラブに横たわっている。無数の名前が刻まれた柱。髑髏が並ぶ棚。シンボル。女性。幽霊。

 死体置台スラブの上で目を覚ました。ここは死体安置所のようだ。体を起こすと、目の端で何かが動いた。浮遊する頭蓋骨だ。いや、浮遊する、頭蓋骨だ。頭蓋骨が喋り出したのだ。

「よう、大将。大丈夫かい? 死体ごっこか、ちりどもの目をくらませてんのか? アンタ、確かに死屍しにかばねだと思ったんだがなあ」

 私は混乱し、頭蓋骨の言葉に集中できなかった。

「な……お前は誰だ?」

「あー……が誰かって? から始めちゃどうだい? アンタは誰なんだ?」

「私は……分からない。思い出せない」

 自分自分について、何も思い出せないことに気づいた。

思い出せないって? へえ。まあ、このおさとで過ごすときは、グビを飲み過ぎんなよ。オレはモーテ。ここに閉じこめられてんだ」

「閉じこめられている?」

「ああ、まだ足がおぼつかないみたいだし、うたいがあるぜ。全部の扉を試したけど、この部屋は貞操帯よりがっちり閉まってるんだ」

 この場所について、聞き出さなければ。

「私たちは……どこに閉じこめられているんだ? この場所は何だ?」

「〈葬儀場〉って呼ばれてるね……孕んだ蜘蛛みたいな建築の魅力あふれる、でっかい黒い建物さ」

 私は死んだのか? それで記憶が欠けているのか?

「〈葬儀場〉? 私は……死んだのか?」

「オレの見立てじゃ、生きてるよ。でも傷だらけだ……どっかの与太者よたもんがナイフで絵を描いたみたいに。そいつが仕事を仕上げに戻ってくる前に、笑いをくれてやるべきだね」

「傷? どれくらい酷い?」

「まあ……胸の傷はそれほどでもないけど……背中のは……」モーテが固まった。「おい、大将、アンタの背中、タトゥーの美術館だよ。何か読めるね……」

 体を見下ろし、傷痕を見た。傷は皮膚をくまなく覆っている。腕には夢で見たものと同じタトゥーがある。しかし、背中のものはどうだろうか。

「背中にタトゥーが? 何と書いてあるんだ?」

「へぇっ! 指示があるみたいだ……」モーテは喉を整えた。「ええっと……最初は……」

「『お前はすでに、ステュクス河の水を散々飲んだような気分だろう。しかしお前は、必要がある。持ち物のが、暗闇に光を落とすだろう。残りの話は、が説明してくれる。彼がまだ死者帳ししゃちょうに書かれていなければだが』」

「ファロド……? 他には書かれていないか?」

「ああ、もう少しあるよ……」モーテは一呼吸置いた。「えっと……続きは……」

「『日記をなくすな。さもなければ、我々はまたステュクス河に行き着くことになる。そして何があっても、お前が、誰にも。さもなければ、即座に火葬場への旅に送り込まれることになる。言うとおりにしろ。日記を。ファロドを』」

「忌々しい小説が書かれているとは、背中が痛いのも不思議ではないな。それによれば日記を持っているはずだが……私が横たわっているとき、日記はあったか?」

「いんや……ここに来たときには、身ぐるみ剥がされてたよ。それにアンタの体には、じゅうぶん日記が刻まれてるみたいだ」

 この頭蓋骨は大して役に立たない。

「ファロドとは? 彼のことは知っているか?」

「知らないね……知り合いが多いってわけじゃないけど。まあ、ファロドがどこで見つかるか、知ってるヤツがいるはずさ……あー、ここから出られたらだけど」

「どうやって出ればいい?」

「まあ、扉は全部閉まってるから、鍵が必要だ。たぶん、この部屋を歩く死体が持ってるんじゃないかな」

「歩く死体?」私は尋ねた。

「ああ、〈葬儀場〉の管理人どもは、死体を安い労働力にしてんだ。石ころみたいにマヌケだけど、無害なヤツらさ。手を出さなきゃ襲ってこない」

 殺すという考えに、どういうわけか不安になった。

「他の方法はないか? 鍵のためだけに殺したくはない」

「おいおい、ヤツらが傷つくとでも思ってんの? ぞ。でもまあ慰めが欲しいなら、ヤツらを殺せば、少なくともまた管理人に起こされるまでは、休めるんじゃないかな」

「まあ、いいだろう……彼らの一人を打ち倒し、鍵を手に入れよう」

 部屋をのろのろと動き回っているゾンビに近づいた。死体は立ち止まり、私をぼんやりと見つめた。その額には「782」という数字が刻まれ、唇は縫い合わされている。ホルムアルデヒドのかすかな香りが、その体から発せられている。

「運がいい請願者せいがんしゃだな、大将。見ろ……あいつ、手に鍵を持ってるぞ」

 モーテに言われなくても分かる。この死体は、鍵を持っているようだ。左手で固く握り、親指と人差し指がしっかりと固定している。鍵を解放するには、手を切り刻む必要があるようだ。

 鍵を手に入れるためには凶器が必要だ。部屋の棚を探し、解剖用のメスを見つけた。そのあいだ、モーテは私の動きに合わせてついてきていた。

「よしっ、メスを見つけたな! さあ死体どもをやっつけよう……心配すんな。オレが後ろから、重要な戦術的アドバイスを与えてやるさ」

「助けてくれるんじゃないのか、モーテ」

「助けになるさ。いいアドバイスは、なかなか得られるもんじゃないんだぜ」

 このおしゃべりな頭蓋骨に、急に怒りを感じた。

「助けというのは、死体を攻撃することだ」

「オレが? オレは兵士じゃなくて、ロマンチストなんだ。邪魔になっちまうよ」

「死体を攻撃するときに、そばにいるほうがいいぞ。さもなければ、私が次にメスを突き刺すのはお前になる」

「うー……分かったよ。助けるよ」

 再びゾンビに近づいた。

「私にはその鍵が必要だ……お前は、棺桶に片足突っこんでいるようなものだしな」

 メスを何度か突き刺すと、ゾンビは動かぬ死体となった。手に入れた鍵を使い、部屋の扉の一つを開いた。

「アドバイスがあるぜ、大将。今後はあれこれ言わないけど—必要以上に死体を死者帳ししゃちょうに送り込む必要はないよ……特に女の死体はね。それにヤツらを殺せば、管理人どもを呼び寄せちまう」

「訊いていなかったと思うが……その管理人とは何者だ?」

「ヤツらは自分たちを、〈塵人ちりびと〉って呼んでる。見れば分かるさ。黒色が大好きで、死後硬直みたいな顔をしてる。残忍な死の崇拝者たちの、腐った集団さ。ヤツらは……誰もがすぐにでも死ぬべきだって信じてるんだ」

 その管理人たちについて思案した。

「少し混乱しているんだが……私が逃げたとして、その塵人ちりびとは気にするのか?」

「話を聞いてたか?! ちりどもはさっさと死ぬべきだって信じてんだ。これまで見た死体どもは、死者帳ししゃちょうの外より中にいるほうが幸せだって思うのかい?」

 ひとたび質問を始めると、聞きたいことが山ほどあることに気づいた。

「この死体たちは……どこから来たんだ?」

「死はこの次元界を毎日訪れてんだぜ、大将。このうすのろどもは、死後の自分の死体を管理人どもに売り払った、哀れな鹿馬野郎かまやろうのなれの果てさ」

死体を殺さないようにと言ったな。なぜだ?」

「な—本気か? 見ろ、大将、この死娘しむすめたちは、オレたちみたいな丈夫ななぐにとっちゃ、最後のチャンスだろ。ならなきゃな……鍵のために彼女たちを叩き切ったり、手足を切り取ったりはナシだぜ」

 モーテが何を言いたいのか、私には分からなかった。

「最後のチャンス? 何の話をしてるんだ?」

「大将、死んでんだ。死んでる……分かるだろ? な? な?」

 ようやく理解できた。だが信じられなかった。

「まさか本気じゃないだろう」

「大将、この足の不自由なレディたちとオレたちの物語は、もう始まってるんだぜ。オレたちは皆、少なくとも一回は死んでるだろ。話題には困らないぜ。彼女たちも、オレたちみたいな死んだ経験のある男は大歓迎さ」

「しかし……待て……私は死んでないと言わなかったか?」

「まあ……うん、はそうかもしれないけど、は死んでる。それにオレ的には、ここの綺麗で丈夫な死体たちと棺を共にするのは、全然アリだね」

 モーテは見越したように歯を鳴らした。

「もちろん、先に管理人どもに手を出されてるかもしれないけど、まあ大丈夫さ……」

 モーテは続けた。「なあ、大将。アンタは死とキスした後で、まだ少し混乱してんだ。だからちょっとしたアドバイスを二つ。まずは、もし疑問があればオレに訊くこと。分かった?」

「分かった……それは……覚えておくようにする」

「二つ目。アンタがその見た目の半分でも忘れっぽいなら、書き留めておくこと—重要そうなものに出くわしたら、忘れないようにメモっとくんだ」

「持っているはずだった日記があれば、そうするのだが」

 日記を奪った者に対して、少し怒りを感じた。

「なら新しく始めるんだ、大将。損はないぜ。アンタを形作るための羊皮紙とインクは、ここには沢山あるからな」

「う~~む。分かった。困ることではない……新しい日記をつけてみよう」

「自分の行動をたどるために、そいつを使うんだ。アンタが誰か、みたいな重要なことが……それかもっと重要な、、みたいなことが……分からなくなり始めたら、日記を使って記憶を新たにするんだぜ」

 次の部屋には、さらに多くのゾンビがいた。彼らは歩き回り、大半は明らかに塵人ちりびとが指定した作業を行っている。しかしその一人に、私は興味をひかれた。その男性の死体は、三角形を描くようにのろのろと歩いている。三角形の一つの角にたどり着くとしばし固まり、そして次の角へとよろめき歩いているのだ。その頭蓋骨の側面には「965」と刻みこまれている。近づくと、彼は立ち止まって私を見つめた。

「へえ。誰かがこの鹿馬かまに、歩くのをやめさせ忘れたみたいだ。三数さんすうの法則だね」モーテがそうコメントした。

「どういう意味だ?」

「コイツらのおつむは空っぽなのさ。だから一度に一つの作業しかできない……何かをするよう言われたら、やめろと言われるまで続けるんだ。この哀れな鹿馬かまはたぶん作業を終えて、そのまま放っとかれてんだ」

三数さんすうの法則とは、どういう意味だ?」

「え? まあ、三数さんすうの法則ってのは、この次元界のさ。物事は三回起きることが多いとか……何でも三つのパーツから成り立ってるとか……いつだって三つの選択肢があるとか、そんな感じ」

「あまり信じていないように聞こえるな」

「オレに言わせれば、まったくマユツバだね。なんか数字を見つけて、そこに大いなる意味をこじつけようとすれば、偶然の一致はたくさん見つかるさ」

 三角形の道をたどる死体を残し、次の部屋に移動した。部屋の中央に、初めて生きている人間がいた。明らかに塵人ちりびとだ。彼は巨大な本に何かを書き込んでいる。

 この書記はとても年老いているようだ……皮膚にしわが寄り、古い羊皮紙のように黄色い跡がうっすらと見える。角張った顔に、消し炭色の瞳。そして白く長いひげが、滝のようにローブを流れている。その息づかいは粗く不規則だが、ときおりの咳でさえ、彼の羽根ペンの動きを鈍らせることはない。この本には何千もの名前が書かれているに違いない。私が近づいても、彼は顔を上げなかった。

 モーテが邪魔をした。「うわっ、大将! 何をしようとしてんだ?!」

「この書記と話そうとしている。私がどうやってここに来たか、知っているかもしれない」

「なあ、ちりどもと骨箱ほねばこ鳴らしあうなんて、極力避け—」

 モーテがわめき終える前に、書記が激しく咳きこみはじめた。少しして咳の発作はおさまり、彼は荒々しい息切れを再開した。

「そして特に、病気のちりどもとうたいを交わすべきじゃないぜ。さあ、離れよう。笑いをくれてやんのは、早ければ早いほうが—」

 モーテが話し終える前に、書記の灰色の瞳が私へとひるがえった。

「休みなき者よ、積日の重みが、わしにずっしりとのしかかっておる」彼は羽根ペンを置いた。「……だが、まだ難聴を患ってはおらぬぞ」

 彼は助けになるだろうか。

「『休みなき者』? 私を知っているのか?」

「おぬしを知っているか、だと? わしは……」彼の声には、苦しさがにじんでいる。「おぬしのことなど、まったく知らぬ。おぬしが知る以上のことはな」

 彼は少しの間、沈黙していた。

「おぬしは忘れてしまったのだから……そうであろう?」

「お前は何者だ?」

「相変わらずの質問だ。そして相も変わらず、間違っておる」

 彼はわずかに頭を下げた。だがその動きにより、再び咳き込んだ。

「わしは……」彼は動きを止め、息を整えた。「わしは……ダールだ」

「この場所は何だ?」

「おぬしは〈葬儀場〉におるのだ、休みなき者よ。おぬしは再び……やって来た……」

 言葉を終える前に、咳の発作が起きた。しばらくして彼は落ち着き、荒い呼吸が再び始まった。

「……ここは、この生の影を離れんとする者たちのための、待合室だ」

「ここは死者が埋葬される場所、あるいは火葬される場所だ。この生の影を離れ、真なる死へと歩む者たちの面倒を見るのは、塵人ちりびととしてのわしらの責務だ」

 ダールは心配そうに声を落とした。

「この場所が分からぬのなら、おぬしの傷は多大な被害をもたらしたに違いない。ここは、おぬしの故郷とも言える場所なのだぞ」

「『この生の影』とは?」

「そうだ、影だ。いいか、休みなき者よ、この生は……本物ではない。おぬしの人生、わしの人生、それは影であり、かつての生の揺らめきだ。このは、わしらが死んだ行き着くものだ。そしてここで、わしらは……囚われておる。囲われておる。真なる死を成し遂げるまで」

「真なる死とは?」

「真なる死とは、存在せぬこと。動機が、感覚が、情熱がない状態だ」ダールは咳き込み、荒い呼吸をする。「純粋な状態だ」

塵人ちりびとが私の死を望む理由を、お前は説明できるのではないか?」

 ダールはため息をついた。

「真なる死を決して獲得することができぬ魂がいると言われておる。死が彼らを見捨て、その名が死者帳ししゃちょうに記されることはない。おぬしが死から目覚めたことは……おぬしもそのような魂の一人であることを示唆しておる。おぬしの存在は、わしらの党閥とうばつには受け入れられぬのだ」

「『受け入れられない』? 私の立場は、よくはないようだ」

「おぬしは理解せねばならぬ。おぬしの存在は、冒涜なのだ。わしらの党閥とうばつの多くの者は、おぬしを火葬しようとするだろう……もし、おぬしの苦悶に気づいたらな」

「お前は塵人ちりびとだ。しかし、私を殺すことに賛成してはいないようだ。なぜだ?」

「わしらの信条をおぬしに強要するのは、公正ではないからだ。おぬしはこの生の影を、わしらが強要したからではなく、自ら諦めねばならぬのだ」

 ダールは再び鋭く咳き込みそうになったが、なんとか抑え込んだ。

「わしがこの地位にいる限り、おぬしが自らの真実を探求する権利は、わしが保障しよう」

「お前は私が、一度ならずここに来たと言ったな。なぜ塵人ちりびとは、私に気づかないんだ?」

「わしは代書人であり、この〈葬儀場〉に来る抜け殻たちの目録係員だ」

 ダールは咳き込み、体を支えた。

死体置台スラブに横たわる者たちの顔を見るのは、わしだけだ。おぬしの存在のやみを、漏らしはせぬよ」

「私が誰か、知っているのか?」

「おぬしについては、わずかしか知らぬぞ、休みなき者よ。おぬしと共に旅した者たちや、今わしらが管理しておる者たちについても、知っておるのは同程度だ」

 ダールはため息をついた。

「休みなき者よ、わしはおぬしに、もう他の者に仲間になるよう求めるな、と請おうぞ—おぬしが歩む場所には悲嘆が歩む。おぬしの重荷は、おぬしだけが背負うのだ」

「私と旅した者たちがいるのか? そして彼らはここに?」

「下の記念館に埋葬されておる、女性の死体は知らぬか? 彼女は過去に、おぬしと旅していたと思っておったが……」ダールは咳き込みそうになり、息を整えた。「思い違いだったか?」

「彼女の死体はどこにある?」彼女のことを知っているかは分からないが、それでも私は尋ねた。

「下の階の、北西の記念館だ。そこの棺台を調べろ……彼女の名前は、その銘板にあるはずだ。それがおぬしの記憶を、蘇らせるやもしれぬ」

「他に私と旅した者たちは、ここに埋葬されているか?」

「疑いようはない。だがわしは、彼らの名前も、どこに葬られているかも知らぬ。おぬしのように、多くの者が歩む道を外れ、そして生き残った者は少ない」

 ダールは私の周りを身ぶりで示した。

「すべての死者は、ここに来る。幾人かは、かつておぬしと旅をしていたであろう」

「私はどうやってここに?」

「かび臭い馬車が、おぬしをこの〈葬儀場〉に運んだのだ、休みなき者よ。その荷車の上に横たわり、ただれて悪臭を放つ忠臣たちの数を思えば、おぬしは自分を王族だと思うたかもしれぬな」

「おぬしの死体は山の真ん中で、他の死体と体液を分かちあっておったぞ」

 ダールは再び激しい咳の発作を起こし、落ち着くまで数分かかった。

「おぬしの“執事”のファロドはいつも通り、おぬしを〈葬儀場〉の門にうち捨てて、喜んでかび臭い銅貨を受け取っておったぞ」

「ファロドとは何者だ?」

「あやつは……死者の収集家だ」ダールは荒々しく呼吸し、そして続けた。「わしらの都市には、真なる死への道を歩んだ者たちの死体をあさり、そして適切に埋葬されるよう、わしらのところに持ってくるような者たちがおるのだ」

「あまり好きではないようだな」

「わしにも尊敬する者はおるぞ、休みなき者よ」

 ダールは荒々しく呼吸をし、体を支えた。

「ファロドは違う。あやつは名誉の印であるかのように悪評を身につけ、死者の持ち物に手を出しおるのだ。最低の汚物を空取引からとりひきする、汚れ役の騎士だ」

 彼はファロドのことを考えて眉をひそめ、間を置いた。

「ファロドが持ち込む者たちが、剥ぎ取られておらぬのは生前の尊厳くらいなものだ。硬直した指から抜き取れるものは、何でも奪うのだ」

「ファロドは私から何か奪ったか?」

 ダールは動きを止め、思案した。

「おそらくな。失ったのか……何か貴重なものを?」

 彼は眉をひそめ、声を下げた。

「ファロドはおぬしの体に物理的に融合していないものを、忌避するわけではない。あやつの貪欲な心を押しとどめるには、ときにはそれさえ不十分だ」

「日記をなくしたんだ」

「日記? それに何らかの価値があるなら、おそらくファロドの手のなかにあろう」

 彼を捜す理由が、もう一つできた。

「そのファロドは、どこで見つけられる?」

「休みなき者よ、いつも通りであれば、あやつがふける汚泥か何かを見つけるよりも前に、ファロドがおぬしを見つけてわしらのところに持ってくる可能性のほうが、はるかに高かろう」

「それでも、彼を見つけなければならない」苛立ちに、声が鋭くなる。

 わずかな警告が、ダールの口調ににじんだ。「ファロドは捜すな、休みなき者よ。おぬしは何も分からず元に戻り、ファロドが少しばかりの銅貨を手に入れるだけに終わるだろう。死を受け入れろ、休みなき者よ。悲嘆の輪を、永続させるでない」

「私は彼を見つけなければならないんだ。どこにいるか知っているか?」

 ダールはしばらく黙っていた。そして、しぶしぶ話し出した。

「今ファロドがどの溝石の下をねぐらにしているかは分からぬ。だが想像するに、〈葬儀場〉の門の向こう、〈蟲蔵むしぐら〉のどこかで見つかるだろう。そこの誰ぞが、あやつの居場所を知っておろう」

「先ほど私の傷について話したな。どういう意味だ?」

「ああ、おぬしの体を彩る傷……それは一人の卑しき男を、真なる死へと続く道へと送り出したかのように見える。しかしそのほとんどは、すでに治癒しておるようだ」

 ダールは少しのあいだ激しく咳き込み、そして体を支えた。

「しかしそれは、表面的な傷に過ぎぬ」

 私の問うような視線に、彼は答えた。

「心の傷のことを言っておるのだ。おぬしは多くのことを忘れてしまったのであろう? おぬしの真の傷は、表面を飾る傷痕よりも、はるかに深くを走っておるかもしれぬ……」ダールは再び咳き込んだ。「……だが、それを確かに知るのは、おぬしだけだ」

 私は初めて、ダールを喋る情報源ではなく、一個人として考えた。少しだけ、心配になったのだ。

「具合が悪そうだな。病気なのか?」

「わしは今、真なる死へと近づいておるのだ、休みなき者よ。永遠の境界を抜け、探し求めた平穏を見つけるのも、遠いことではないだろう。わしは、この常命の天地には飽いておる……」

 ダールは荒々しくため息をついた。

「この次元界は、わしのような者にとって、もはや驚きを抱いておらぬのだ」

「休みなき者よ、わしは永遠に生きることも、再び生きることも望まぬ。わしには耐えられぬ」

 私はしばらく立ち尽くし、彼のことを考え、“心配”という新たな気持ちにふけっていた。しかし、この〈葬儀場〉から出る方法を見つけなければ。

「好きにすればいい。さようなら、ダール」

 私が背を向けると、ダールが声をかけてきた。

「これを知っておけ。休みなき者よ、わしはおぬしを羨んではおらぬ。おぬしのように生き返るのは、わしには耐えられぬ呪いだ。おぬしは甘受せねばならぬ。いずれ、おぬしの道はここに戻ってこよう……」ダールは咳き込み、喉が音を立てる。「それが、あらゆる肉と骨たるものたちが、たどる道だ」

 部屋の反対側の出口に向かい、そこであやうく女性のゾンビを押し倒しそうになった。

 その女性の死体は、部屋の中を死体置台スラブから死体置台スラブへと歩き回っていた。髪は編まれて長いひもとなり、輪縄のように首に巻かれている。彼女の額には「1096」という数字が型板で刷られ、唇は縫い合わされている。

 驚いた私は口ごもった。

「あー……素敵な髪型だな」

 死体は反応しない。おそらく私の存在に、気づいてさえいないだろう。先へと進むと、モーテが喋った。

「ひゅー。オレを見る彼女の視線が分かったか? なあ? どうだ? オレの後頭部の曲線をなぞる、あの視線を」

 私は冗談を言おうとした。思い出せる限り、初めてのことだろう。

「あの虚ろな目の、あの世からの視線のことか?」

「な—目が見えねえのか?! 彼女はオレを見定めてたんだ! ずうずうしくも、オレを求めてたのさ」

「お前とお前の想像力は、しばらく離れて過ごす必要があると思うぞ」

「ああ、ああ、何でもいいよ。アンタもオレくらい長く死んでれば、合図が分かるようになるぜ。彼女たちは、アンタには理解できないくらいセンサイ過ぎるのかもな。でもだからこそ、死んだばかりの官能的な娘さんとは、オレが一緒に一夜を過ごすのさ。アンタがぼんやり突っ立って、『あれれ~?』『どうなってるの~?』『ぼくの~きおくはどこ~?』なんてぐずってるあいだにな」

「何でもいい。行くぞ、モーテ」

 別の部屋に移動し、死体置台スラブの近くで忙しそうにしている塵人ちりびとに気づいた。青白い顔立ちの、比較的若い女性だ。頬と首のへこみから、飢えているかのように見える。彼女は目の前の死体を解剖しようとしているようで、その胸を指で突いている。

 彼女のところに移動し、話しかけた。

「こんにちは」

 反応しない……目の前の死体に没頭しているようだ。彼女の仕事を見ていると、不意に気づいた。その手は……その指は、かぎ爪だ。かぎ爪が死体の胸腔に出入りし、臓器を取り除いている。

「その手はどうしたんだ?」

 私は口ごもった。しかしモーテには聞こえたようで、彼はこう答えた。

「あ~……彼女は〈ティーフリング〉なのさ、大将。コイツらの血管には、デーモンの血が流れてんだ。ご先祖さまが、何体かのデーモンとベッドインしたか何かでね。そんで頭ん中と……見た目が腐っちまってる」

 決心して彼女を軽く叩き、注意を引いた。

 彼女は飛び上がり、私のほうを向いた……その眼は朽ちた黄色で、瞳には小さな斑点がある。私を見ると、表情が驚きから怒りに変わり、にらみつけてきた。

 彼女は私のあいさつを聞いていなかったようで、まったく私を見ることができないかのように身を乗り出し、目を細めた……何らかの眼の問題により、ひどく近眼に違いない。

「お前—」彼女はかぎ爪の指を鳴らし、両手を奇妙に動かした。「と、、腐液を見つけて、、アイ゠ヴェーンに、持ってこい。さあ、行け、行け」

 彼女の反応を腹の中で笑い、立ち去った。そして頭の中から彼女のことを閉め出そうとした。しかし、無視するべきではないと感じた仕事を暗に引き受けたのではないかという確信を、揺るがすことができなかった。幸いにも、近くの棺台やテーブルを探すと、必要なものはすぐに見つかった。アイ゠ヴェーンのところに戻ったとき、彼女はまだ死体の胸をかぎ爪で解剖していた。再び彼女を軽く叩いて注意を引き、糸と防腐液を渡した。

 アイ゠ヴェーンは驚くことなく私の手から糸を奪い、かぎ爪に引っかけ、死体の胸を縫いはじめた。そして防腐液を取り、死体に塗りはじめる。

 私はその仕事に魅了され、彼女を見ていた。彼女は数分のうちに仕事を終え、かぎ爪を鳴らして私のほうを向いた。驚いたことに、彼女は手を伸ばし、かぎ爪を私の腕と胸にはわせた。私は体をこわばらせ、ゾンビとしての役を演じた。「新しいお友だちができたみたいだな、大将。二人っきりの時間が必要だったりするかい……?」という、モーテの言葉を無視しながら。

 腕と胸をなぞられながら、彼女が傷を調べているようだと気づいた。彼女はかぎ爪を引っこめて二回鳴らし、そして身を乗り出して胸のタトゥーを調べた。

「ふーん。誰が描いた? 蟲人むしびと? ゾンヒに敬意がない。ゾンヒ、絵じゃない」

 彼女は鼻を鳴らし、傷の一つを突いた。

「こいつ酷い。多くの傷、のこらない」

 突然、アイ゠ヴェーンは私が渡した糸をかぎ爪に引っかけ、そして稲妻のように、別のかぎ爪を傷の近くの皮膚に突き刺した。そうして彼女は、私の傷を縫いはじめた。しかし不思議なことに、痛みはなかった。

 彼女は作業を終えると私の臭いを嗅ぎ、眉をしかめ、そして指を防腐液に突っこんだ。数分のうちに、私の体に液を塗りたくる……そして不思議なことに、私は気分がよくなったように感じた。モーテはこう言わずにはいられなかったようだ。

「鼻がないことを感謝したのは、人生で二度目かも」

 アイ゠ヴェーンは最後の仕上げをし、再び臭いを嗅いでうなずき、そしてシッシッとかぎ爪を振った。

「終わった。さあ行け」

 もう少し歩き回り、一階への階段を見つけた。そして別の塵人ちりびとを見つけて近づいたが、彼は私のことを警戒していたため、私はうろたえてしまった。彼は無表情でこう言った。

「迷子か?」

「違う」すぐに答えた。

「迷子でないなら、ここで何をしている?」

「埋葬に来たんだ。しかし手違いがあったらしい」

 私は少しだけ「手違いというのは、埋葬されるのは私だったのだが、実は死んでいなかったんだ」と言いたくなった。

「誰の埋葬だ? 埋葬が行われるのは、別の場所だろう」

「そうかもな。それはどこだ?」

「いくつかの埋葬室が、〈葬儀場〉の周囲に並んでいる。一階と二階の壁に沿ってな。故人の名前は分かるか?」

 自分の言い逃れにとらわれ、こう答えるしかなかった。

「分かる」

 塵人ちりびとは黙っている。明らかに、次の言葉を待っている。何かでっち上げなければならない。

「名前は……あ~、アザーンだ」

「聞き覚えのない名前だ。正門の案内人に相談しろ……道を教えてくれるだろう」

「承知した。そうしよう。さようなら」

 私は立ち去った。塵人ちりびとは邪魔された仕事に戻ることに熱心で、疑いを抱かなかったようだ。


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